藤原氏の祖父が生きた明治という時代、その時代を拓いた明治維新について振り返る。河北新報の名記者として知られ、戊辰戦争の客観的な記録『仙台戊辰史』を著した祖父から、歴史評価についての姿勢を教えられたと藤原氏は話す。

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「第2回:歴史評価のあるべき姿を教えてくれた祖父」
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祖父が見た戊辰戦争

――では40年周期説を下敷きに近代史を振り返ってみたいと思います。日本の近代は明治維新によって始まりますが、藤原さんのお祖父様はその前段階である戊辰戦争に関する記録を遺されたそうですね。

はい。戊辰戦争について敗者の視点から初めて記録した『仙台戊辰史』を著したのが僕の祖父、藤原相之助です。祖父は秋田県出身で田沢湖のほとりの生保内村(おぼないむら)、現在の仙北市南東部で生まれ育ち、のちに河北新報の記者として活躍しました。地主の長男で、幼いころは近隣の角館にあった塾に通って漢籍などを、維新後は外国語も学んだようです。

生保内村は秋田県と岩手県、当時は秋田藩と南部藩との境に位置し、江戸時代から藩境のいさかいが多かった地域です。戊辰戦争では秋田藩が新政府側についたため、あたりの田んぼ一帯が官軍と賊軍の戦場になりました。戦いの混乱の中で家族が逃げるとき、赤ん坊だった祖父はカゴに入れられたまま草原の中に置いてきぼりにされてしまいました。気づいた家族が青ざめて探し回ったら、茅の束の中で一人すやすや眠っていて、この子は大した子だと言われたそうです。

後になってそのことを聞かされた祖父は、自分の経験したあの戦いは、戊辰戦争とは何だったのか知りたくなった。けれど、当時はきちんとした記録もありませんでした。子どもだった祖父は、そのまた祖父になぜ記録がないのか訊ねたところ、「せっかく塾で勉学をしているのだから、大人になったら自分で調べて研究してみなさい」と言われた。それならば、と新聞記者になってから、生き残っていた当事者に取材して証言を記録し、明治維新全体の流れと照らしながら客観的に考察したのが『仙台戊辰史』です。

――戦記は勝者側の視点から書かれることが多い中、客観的に書かれたということが重要ですね。

そう思います。祖父は最初、東北新聞に就職し、そこが倒産して河北新報に入ったそうですが、新聞社のある宮城県仙台市で暮らしていたため旧仙台藩の書物などの資料も数多くあり、藩の重要人物も存命で生き証人の声を聴くことができました。御一新によって旧藩のしがらみもなくなり、自由に取材できるようになったことも幸いしたと思います。

『仙台戊辰史』は、きちんとした証拠と取材に基づいた近代的な手法の記録であったことからたちまち評判になり、学術的にも評価されました。その評判に薩長の人たちが反発し、旧長州藩の末松謙澄が反論書として『防長回天史』を書いたと言われています。祖父が書いた世良修蔵に関する記述が気に入らないと、子孫がわが家に押しかけてきたこともありました。

祖父はもともと、社会学的な視点を持ち合わせていたのでしょう。それに従って戊辰戦争を記録したことで、歴史の評価のあるべき姿を示してくれました。その精神はわが家に受け継がれています。

明治維新の功罪

――明治維新から日露戦争に至る40年について、藤原さんはどのように評価されますか。

近年、明治維新の評価を見直そうという動きが起きていますね。その理由の一つに、戊辰戦争で新政府軍が会津で行ったひどい仕打ちがあります。それ以前から「白河以北一山百文」、つまり白河の関から北の土地には価値がないと言われてきた東北の歴史があり、「河北新報」の名は、そのような侮蔑への反骨精神を示しているといいます。祖父が戊辰戦争の中立的な記録を書いた背景には、それまで軽んじられてきた東北の人間として,薩長中心で歴史をつくられてしまうことへの反発があったのかもしれません。

それはあくまでも東北の視点ではありますが、やはり歴史的事実として薩長主導で尊皇・攘夷・開国・佐幕という四つのワードによる対立構造がつくられ、長州藩出身者が陸軍を、薩摩藩出身者が海軍を掌握して日本の権力構造の中枢をなしたことがあります。その体制で日清・日露戦争に辛うじて勝利したことが驕りにつながり、のちの第二次世界大戦を招いたということは言えるでしょう。

勝者が歴史をつくるということは世界的にもよく見られ、歴史の客観的な評価が定まるには長い時間がかかるものです。明治維新の評価も見直されていくかもしれないですね。

――一方で、明治の殖産興業政策によって日本の近代化は一気に進みました。最近は渋沢栄一が日本的経営のルーツとして再評価されています。

そうですね。経済記者時代、どこを取材しても原点を辿ると渋沢栄一に行き着くのに驚いたことがあります。第一国立銀行、東京証券取引所、東京商法会議所(東京商工会議所)の設立はもとより、海運も、製紙も、インフラも、あらゆる産業の礎を築いたわけですからね。なぜもっと評価されないのか疑問に思ってきました。

その当時、取材などで全国銀行協会によく出入りする中で事務局長の北原道貫さんとお近づきになり、「金融のことはよく分かりません」と言うと「いつでも聞きに来いよ」とおっしゃるので、しょっちゅうお邪魔していました。北原さんは日本の金融経済界の生き証人のような方で、その後、協会の副会長まで務められましたが、本当にいろいろなことを教えてくださいました。僕に金融記者が務まったのは北原さんのお陰と言っても過言ではありません。

その北原さんが渋沢栄一を尊敬されていて、渋沢が近代日本経済に果たした役割についてよく話していました。全国銀行協会のビルには渋沢栄一の胸像があり、北原さんを訪ねるときはいつもその胸像に心の中で挨拶していたこともいい思い出です。

渋沢栄一は経済というものを通じて、封建制の社会から自由で平等な競争が可能な社会への転換を促し、自由経済と倫理・道徳の両立を理念とした、志の高い人でした。彼の業績と思想が日本型資本主義の礎となり、のちの経済発展にまでつながったことは間違いないと言えるでしょう。

新一万円札に肖像が採用されたことでも注目されていますし、今後、渋沢栄一が近代日本の経済発展に果たした役割についての評価も高まっていくと思います。(第3回へつづく)

撮影協力 公益財団法人国際文化会館

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藤原 作弥
1937年仙台市に生まれる。旧満州安東(現丹東)で終戦を迎え、1946年11月帰国。1962年東京外語大学フランス学科卒業後、時事通信入社。オタワ・ワシントン特派員、編集委員、解説委員長などを歴任。1998年から2003年まで日本銀行副総裁、2003年から2007年まで日立総合計画研究所社長を務める。
著書に『聖母病院の友人たち』(日本エッセイストクラブ賞受賞)、『満州、少国民の戦記』、『李香蘭・私の半生』(山口淑子氏との共著)、『死を看取るこころ』、『満州の風』、『素顔の日銀副総裁日記』ほか多数。