平井正修氏 臨済宗全生庵 七世住職

人を育てることに、正解はないと言われます。

修行道場に入門するとき、私は父から「褒められるようになったら帰ってこい」と送り出されました。褒められるのは見どころがあると認められたから、ではありません。禅の修行において褒められることは、成長する見込みがないことを意味します。

「獅子の子落とし」という故事があります。獅子はわが子を生まれてすぐに千尋の谷に落とす。這い上がってきて、さらに親のすねに噛みつくぐらい強い子だけを育てるというものです。修行道場も同じで、とにかく叱られて、叱られて、これでもかと叱られて、それでも這い上がってくる器量が試されるところなのです。

そうやって叱られて成長してきたせいか、私は自分の子を褒めることが苦手です。昨今の「褒めて伸ばす」子育て論にはそぐわないのかもしれません。
では、叱ることは間違っているのでしょうか。

「叱る」は「怒る」とは違います。「叱る」は相手があっての行為。相手のことを思い、言動や思考の非を正し、成長を促すために行うことです。対して、「怒る」はあくまでも自分の感情。それを相手にぶつけているにすぎません。

誰かを叱るには、その人の言動や考え方、成績や成果などをしっかり見て、どこが間違っているのか的確に指摘しなければなりません。もちろん、本人に伝えるかどうかは別として、どうすれば改善できるのかも見極めておく必要があります。

そう考えると、褒めるほうが易しいようにも思われます。しかし、褒めるべきポイントと褒めるべきタイミングをつかむには、やはりその人をしっかり見る必要があります。叱るにしても褒めるにしても、その人に対して真摯に向き合わなければ、できないことです。自分の好き嫌いといった感情で評価を変えるようなことをすれば、信頼を失ってしまいます。

部下やわが子のことを、よく見る。自分の中にぶれない価値判断の基準を持つ。相性や好き嫌いといった思い込みを捨て、相手の立場で考える。そうした姿勢が根底にあれば、叱るか褒めるかにかかわりなく、その人の成長を促すことができます。リモートワークでも、相手を気にかけ、直接顔を合わせる機会を大切にして向き合えば、あなたの心は通じるはずです。

「観音経」(法華経第25章)の中に「慈眼視衆生(じげんししゅじょう)」という一節があります。「慈眼(じげん)」とは慈悲の眼(まなこ)、「観音菩薩は常に、生きとし生けるものすべてを慈悲の眼で見てくださる」という意味です。

仏教でいう「慈悲」には、「抜苦与楽」という意味が込められています。抜苦とは相手の苦しみを自分の苦しみとすること、与楽は相手の喜びを自分の喜びとすること。相手をよく見ることで、そのように自分と重ね合わせて考えられるようになり、慈しみの心が生じます。

私が慈眼という言葉からイメージするのは狩野芳崖作の「悲母観音」です。生まれたばかりの嬰児に慈愛のまなざしを向けながら、生命の水を優しく注ぎかける観音菩薩の姿が描かれた日本画です。母の慈愛を表す観音像は嬰児を胸に抱く姿で描かれることが多い中、この「悲母観音」は少し離れた高みから嬰児を見つめています。

慈悲の心をもって衆生(命あるもの)を見る仏菩薩の目を表した仏語。(平井住職直筆)

胸に抱いたほうが慈愛は伝わる。けれども近づきすぎれば相手の部分しか見えない。あえて少し離れ、高いところから慈悲の心で相手のすべてを見守り、必要があれば生命の水を注ぐように助けを出す。人を育てる方法に正解はなくとも、この「悲母観音」が表す慈眼を心構えとすれば、少なくとも間違うことはないと私は思います。

「慈眼」で相手を見られるようになるには、あなた自身も成長しなければならないでしょう。人を育てるとは、自分を育てることでもあるのです。

平井 正修(ひらい しょうしゅう)
臨済宗国泰寺派全生庵住職。1967年、東京生まれ。学習院大学法学部卒業後、1990年、静岡県三島市龍澤寺専門道場入山。2001年、下山。2003年、全生庵第七世住職就任。2016年、日本大学危機管理学部客員教授、2018年、大学院大学至善館特任教授就任。現在、政界・財界人が多く参禅する全生庵にて、坐禅会や写経会など布教に努めている。『最後のサムライ山岡鐵舟』(教育評論社)、『坐禅のすすめ』(幻冬舎)、『忘れる力』(三笠書房)、『「安心」を得る』(徳間文庫)、『禅がすすめる力の抜き方』、『男の禅語』(ともに三笠書房・知的生きかた文庫)など著書多数。