株式会社 日立製作所 執行役副社長 德永俊昭/建築家 妹島和世氏
茨城県日立市出身の世界的な建築家 妹島和世氏。同じく日立市出身で、高校も後輩の日立製作所 執行役副社長 德永俊昭。地元の偉大な先輩として、妹島氏の作品や活躍を見続けてきた德永が待望した対談、第2回のテーマは、グローバルというフィールドについて。

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「第2回:グローバルというフィールド」
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コロナ禍での日常

德永
2022年2月の今でも、私たちはコロナ禍の中にいて、出口は見つかっていません。私自身で言えば、2019年、2020年とカリフォルニア州のサンタクララで、日立のグループ会社である日立ヴァンタラ社の責任者をやっていました。2020年に入り、日本との行き来が難しくなり、そこから8カ月間現地での在宅勤務になってしまいました。

その間に、人間は人とのつながりを持たないと少し変になるということを身を持って感じました。実際に人とつながることができなくなるということがいかに寂しいか。やはりいろいろな手だてで人は人との接点をつくらないと、普通の幸せな日常を送ることさえ難しいということを実感しました。妹島さんは建築において「つながり」というものを大切にされていますが、コロナ禍はどのように過ごされていらっしゃいましたか。

妹島
私も2020年の最初のころは、何が起きているのかよくわからず、相当におびえながらなるべく人との接触は避けるようにしていました。私たちの仕事だと、模型をつくったりそれを見ながらディスカッションしたりしますので、そのときだけは少人数でオフィスに集まって、終われば家に帰る。そういう形で仕事を進めていました。

海外案件で動いている人は、行き来ができなくなりましたから、最少人数で現地に行ったきりで仕事をすることになりました。本当に申し訳なかったのですが…。彼らが進める仕事に私たちも対応する必要がありますから、3フロアあるオフィスを活用してなるべく離れて仕事をしたり、海外の時差に合わせて働く時間をずらしたり、あるいはリモート会議をしたりして進めました。

德永
必要に迫られて、工夫しながら仕事を継続されてこられたわけですね。

妹島
そうなんです。でも、そのときに思ったのは、以前から仕事をするときにはいろんな人たちと一緒に進めてきたわけですね。それを全部同じ条件に押し込めるのではなく、ばらばらでも一緒に仕事ができるような関係性や場所がつくれるのなら、それもありうるなあと思ったんです。それって、公園みたいじゃないですか。みんなそれぞれがばらばらに思い思いの時間を過ごしたり、集まったりできる空間。

德永
お話を聞いて、私は日立駅を思い浮かべました。みんなが自分なりの景色、自分なりの空気感を楽しんで、海を見ている人もいれば、山のほうを見ている人もいれば、カフェでご飯を食べている人もいて、めいめいがその空間で人の気配を感じながら楽しんでいる。

妹島
閉じた空間だと、「ここに一緒にいろ」と強制されているように感じるけれども、もう少し開いて思い思いにいられるような場所だと心地いいですよね。そのときに大事なことは、誰かが整えてくれた場所で決められた何かをするのではなくて、一人ひとりが自分で責任を持ちながら、どうやってみんなが気持ち良く一緒にいられるのかを考えることだと思います。

德永
与えられるものではなく、一緒につくっていくという当事者意識ですね。

妹島
建築の設計でも、仕様の基準を満たさないものは全部不良品とするクオリティ至上主義の考え方があります。でも数字だけでクオリティを判断するようになると、どんどん自分たちの首を絞めてしまっているような。もう少しその辺の基準を一緒に柔らかく、大らかにしていく必要があると思います。

德永
あまりに基準が厳格だと、「もう書いてあるとおりにやればいいんでしょう」ということになり、考えることをやめてしまうことになります。結果的に、人間らしさやクリエイティビティが圧倒的に失われていく。時々、それが今の日本に起きていると感じることがあります。

妹島
それはちょっと怖いことですよね。

德永
この範囲に入っていればいいですよとみんなが認識していて、その範囲に収めるために一人ひとりが責任を持つ。その範囲をなんとか達成しようと当事者意識を強く持って進める。そういう感覚は、海外で仕事をしていると感じることが多いです。

妹島
そうですよね。みんなが当事者意識を持って意思決定のプロセスにかかわることになるといいですね。

德永
本当にそう思います。

グローバルとローカルの相乗効果

德永
妹島さんはいろいろな国でお仕事をされています。日本には日本という国の風土や文化があるように、それぞれの国にもそれぞれの風土や文化があり、建築に対する認識も違う中で、なぜその国に受け入れられるような建築を考えることができるのでしょう?そして、なぜ一人の人間にそれが可能なのでしょう?

妹島
私は年齢を重ねながら少しずつ気がついたことがあって。それは新しい建物をつくる場合でも、ゼロからそこに何かをつくるわけではない、ということなんです。どの場所でも、そこには歴史や気候、土の色が黒かったり赤かったり、人が感じる居心地の良さなどさまざまなものがすでに存在していて、私はそれをつなげたい。それによって、もっと大きな風景に受け入れてもらえるような建築の在り方を探したいんです。

例えば敷地が外国ですと、私はその国に住んでいるわけではないので、実際に住んでいる人と同じようにはその場所に詳しいわけではありません。でも、例えばギリシャのアクロポリスを見たときに、誰もがすごいって思うような、みんなで共有できる場所が持つ特別なことってあると思います。きれいな海とか、全員が「これは気持ちがいいね」という共通項がある。それからその場所場所でローカルのアーキテクトとチームを組んだり、教えてもらったりしながら、逆にそこで育っていない分だけ気づけることなどもあります。こういったことが組み合わさることで、毎回違うものが生み出される。「一期一会」みたいな感じです。

德永
そうなんですね。ローカルのアーキテクトの方も加わって、それぞれに違った新しいものがつくられる。

妹島
そうです、ローカルなものとグローバルなものが混ざり合うというか。

德永
今私たち日立も、それぞれの国や都市が抱える社会課題の解決や、暮らしている方々がQoL(Quality of Life)の高い人生を送れるようなソリューション提供を、「社会イノベーション事業」と名付けてグローバルで展開しています。それを進めるうえでは日立だけではなく、いろんな人や組織にその活動に賛同していただく必要があります。

私が新たなお客さまや仲間との取り組み、言い換えれば「協創」を始める際、一番重要だと思っているのは、企業としてのパーパス(存在意義)です。日立には、「優れた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」というパーパスがあります。これを一緒に仕事をするときに紹介すると、海外の人にもしっかりと響くのです。

グローバルで社会イノベーション事業を展開するとき、日立という会社が何のために存在するのか。この日立のDNAを全員で共有することが重要だと、海外での経験を通じて最近強く思うようになりました。(第3回へつづく)

撮影協力 公益財団法人国際文化会館

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妹島和世(Kazuyo Sejima)
1956年茨城県生まれ。1981年日本女子大学大学院家政学研究科を修了。1987年妹島和世建築設計事務所設立。1995年西沢立衛とともにSANAAを設立。2010年第12回ベネチアビエンナーレ国際建築展の総合ディレクターを務める。日本建築学会賞*、ベネチアビエンナーレ国際建築展金獅子賞*、プリツカー賞*、芸術文化勲章オフィシエ、紫綬褒章などを受賞。現在、ミラノ工科大学教授、横浜国立大学名誉教授、日本女子大学客員教授、大阪芸術大学客員教授。主な建築作品として、金沢21世紀美術館*(金沢市)、Rolexラーニングセンター*(ローザンヌ・スイス)、ルーヴル・ランス*(ランス・フランス)などがある。 
* はSANAAとして

德永俊昭(Toshiaki Tokunaga)
1990年、株式会社 日立製作所入社、2022年4月より、代表執行役 執行役副社長 社長補佐(金融事業、公共社会事業、ディフェンス事業、サービス・プラットフォーム事業、社会イノベーション事業推進、デジタル戦略担当)、デジタルシステム&サービス統括本部長/日立デジタル社 取締役会長。