株式会社 日立製作所 執行役副社長 德永俊昭/建築家 妹島和世氏
茨城県日立市出身の世界的な建築家 妹島和世氏。同じく日立市出身で、高校も後輩の日立製作所 執行役副社長 德永俊昭。地元の偉大な先輩として、妹島氏の作品や活躍を見続けてきた德永が待望した対談を、全5回に渡ってお届けする。第1回のテーマは、お二人が生まれ育った日立市について。

「第1回:日立育ちの偉大な先輩」
「第2回:グローバルというフィールド」はこちら>
「第3回:豊かさの多様性」はこちら>
「第4回:他人事と自分事」はこちら>
「第5回:一人称で働く」はこちら>

日立の社宅で生まれ育った二人

德永
本日はよろしくお願いいたします。

妹島
こちらこそ、よろしくお願いします。

德永
はじめに自己紹介させていただきます。德永俊昭と申します。私は1967年の3月、茨城県日立市に生まれ、父が日立製作所の工場に勤めておりましたので、幼稚園の頃からずっと日立製作所の社宅で育ちました。高校からは、水戸にあります茨城県立水戸第一高等学校に通いました。妹島さんの後輩になります。

その後、1990年に日立製作所に入社いたしまして、2021年の4月から副社長として、日立のIT部門全体の取りまとめを行っています。

妹島さんが日立駅日立市新庁舎、そして日立が製造した西武鉄道様の新型特急車両「Lavie(ラビュー)」、それらのデザインを手がけられたこと、そしてその方が私と地元も高校も一緒だということを知ったときの衝撃と喜びは、本当に筆舌に尽くしがたいものがありました。そんな偉大な先輩との対談ということで、本日は緊張しつつも大変楽しみにしてまいりました。

妹島
ありがとうございます。そうなんです、私も生まれは德永さんと同じ日立市で、父がやはり日立製作所に勤めていましたから、日立の社宅で育ちました。当時は高度成長期で、社宅だけでひとつの街がつくられているような感覚でした。小学校の生徒はほとんどがなんらかの日立関係者の子どもたちで、同じ社宅の中に十何人も同級生がいるという環境でわいわい楽しく過ごし、大きくなりました。同級生たちとは、今でも付き合いがあります。

德永
とてもよくわかります。そんな妹島さんが建築家をめざすきっかけについて、まずはお聞きしたいと思います。

妹島
うちの父はエンジニアでしたし、親戚に建築関係の人がいるわけでもないので、高校3年生までは特に建築に関心を持つこともなく育ちました。ただ、小学校低学年のころに、母が読んでいた婦人雑誌にひとつの建築の写真が載っていまして、「こういう家もあるんだ」と驚かされました。そのころ分譲地を買って社宅を出て家を建てるというのが少しブームになっていて、たまたまうちでもそういう話になったときがありました。私は夢中になって紙に間取り図をあれこれと書いて、「こういう家はどう?」と両親に見せたことがあったのです。結局は大きめの社宅が見つかり、我が家の新築計画の実現は先に延びましたが。

それから高校に行き、大学受験となってどの学部に行くかを決めなければいけないというときに、消去法で考えて小さいころに興味のあった建築が学べる学部ということで建築学科を受けました。高校は理系のコースでしたので、進路としては医学部か歯学部か薬学部、工学部か理学部くらいしか思い浮かばなくて。医学や歯学、薬学は自分には向いてないし、残るのは工学部と理学部ということになり、最終的に建築学科へと進みました。

德永
私が水戸一高のときの3年生は9クラスあって、そのうち理系のクラスがおそらく4クラス、その中で女性はたぶん2割いるかいないかでした。建築学科を選ばれた人はほとんどいなかったように記憶しています。

妹島
私のときも9クラスで、やはり半分が理系のクラスで女性の比率は1割くらいでした。当時は建築というものがわかりにくかったので、同級生とあまり具体的な進路の話はしていなかったのですが、後になって同じクラスの中に2~3人建築学科に行った人がいたことを知りました。彼らは最終的に、建築のデザインというよりはもう少しエンジニアリングの方に進みました。

日立駅のデザインに込めた日立らしさ

德永
私が通学で利用していた日立駅がリニューアルされたとき、地元の友人から「素晴らしい駅舎ができたから早く見に来た方がいいよ」と連絡がありました。そのデザインを妹島さんが手がけられたということを知って本当に感動したのですが、あの駅のデザインに込められた思いについて、ぜひお聞きしたいです。

妹島
日立駅はコンペ(コンペティション:設計競合)からはじまりました。そのとき求められたことのひとつに「日立らしさ」というものがありました。日立で生まれ育った私には、改めて日立らしさと言われてもあまりピンとこなくて。ただ、日立で育った小学校、中学校、高校を通じて、どこからでも海が見えていた。自宅からでも2階へ上がれば海が見えました。それほど身近で当たり前の存在だった海が、当時の日立駅からは見えませんでした。

建築家として日立らしさって何だろうと考えたときに、そんな記憶を思い出し、やっぱり駅から海が見えることが重要だと思いました。そして日立というのは、海だけでなく山も近くにあって両方が間近に見える街なので、何か巨大な建造物でその個性を潰すのではなく、海と山を水平につなぐようなものにしたいと思い、あのデザインになりました。

德永
妹島さんの建築の重要な要素である「つなぐ」ということが、私たちにも理解できる作品だと思います。おっしゃる通り日立市は、航空写真で見ても、山と海が迫った狭いところにあります。現在の日立駅からは、水平線まで見通すことができますし、街へ向かう通路からは山が見えて、日立市ならではの自然を味わうことができます。天気や季節によっても景色が違うので、本当に訪れるのが楽しみな場所になりました。(第2回へつづく)

撮影協力 公益財団法人国際文化会館

「第2回:グローバルというフィールド」はこちら>

妹島和世(Kazuyo Sejima)
1956年茨城県生まれ。1981年日本女子大学大学院家政学研究科を修了。1987年妹島和世建築設計事務所設立。1995年西沢立衛とともにSANAAを設立。2010年第12回ベネチアビエンナーレ国際建築展の総合ディレクターを務める。日本建築学会賞*、ベネチアビエンナーレ国際建築展金獅子賞*、プリツカー賞*、芸術文化勲章オフィシエ、紫綬褒章などを受賞。現在、ミラノ工科大学教授、横浜国立大学名誉教授、日本女子大学客員教授、大阪芸術大学客員教授。主な建築作品として、金沢21世紀美術館*(金沢市)、Rolexラーニングセンター*(ローザンヌ・スイス)、ルーヴル・ランス*(ランス・フランス)などがある。 
* はSANAAとして

德永俊昭(Toshiaki Tokunaga)
1990年、株式会社 日立製作所入社、2022年4月より、代表執行役 執行役副社長 社長補佐(金融事業、公共社会事業、ディフェンス事業、サービス・プラットフォーム事業、社会イノベーション事業推進、デジタル戦略担当)、デジタルシステム&サービス統括本部長/日立デジタル社 取締役会長。