いま日本人にとって花といえば桜ですが、万葉集が詠まれた時代の代表花は梅だといわれています。万葉集の巻五には梅花の項があり、令和の語源となった「初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き…」という序文からも、当時の人たちの梅に対する強い思いが伝わってきます。

梅の花は禅とも深いつながりを持っています。寒苦に耐えて花をひらき清香を放つ。これが苦境に遭うなかで、そこから逃げずに真正面から向き合う修行の身そのものと重なります。大事なのは清香、ほのかな香りです。一所懸命に修行に取り組んでいることを声高に言わなくても、その姿そのものが周りの人たちを自然と感化していく謙虚な強さ、そして人をやわらかく包み込むような淡い香りが、禅のめざす境地を示しているのです。

山岡鐵舟の弟子・小倉鉄樹は、「山岡先生が道場に現れると、槍でも鉄砲でももってこいといった気持ちになって元気が出た」といった内容を後年述べています。その人がそこにいるだけで何となく安心する、何となくまとまっている。そうした雰囲気をつくりだしているのは、その人が長年積み重ねてきた物事に対する姿勢や周りの人に対する接し方など、すべてを含んだ人となりが香りとなって現れているのでしょう。

「一点梅花蘂 三千世界香」という禅語は、そうした考え方そのものです。梅の蘂(ずい、しべ)が放つ香りはほのかだけど、姿勢を正してこころを澄ませれば、その香りが天地いっぱい(三千世界)に広がっていることに気づくことができるというわけです。

梅は実を結ぶことでも喜ばれます。成功するという意味ではなく、結果はどうであれ、懸命に取り組んだことは自分の身になるということです。

(※)「梅 三千世界香」山本玄峰 書(全生庵所蔵)

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」 かつて楽天イーグルスを指揮した野村克也氏の座右の銘として広く知れ渡ったこの箴言は、江戸時代後期に活躍した肥前国平戸藩の第九代当主・松浦清(号は清山)の著『甲子夜話』に出てくる一節です。負け(失敗)に学ぶことの大切さ、運を味方につけることになる努力や徳を積むことの大切さ、そして何事にも丁寧に向き合うことの大切さが、危機に直面したときの直感力や対応力につながることを教えています。勝ち負けはその一瞬だけ。一喜一憂するよりは、今日という日に何を為すかを自分自身に問いかけていくこと、あるいは昨日、何を為したかを反省していくことのほうが意義のあることではないでしょうか。このように考えていくと、出来不出来も含めてさまざまな形の実を結ぶ梅の姿は、禅の教えそのものだとつくづく実感します。

人間のこころは成功だと思えばそこで止まってしまいます。失敗だと思えば萎縮して、またそこで止まってしまいます。物事を成功失敗と捉えるのではなく、ありのままにひたすら冷静に見ていく眼がとくに経営のリーダーたちには必要ではないでしょうか。成功失敗に執着することで、未来を見据えた経営ができなくなっていくのではないでしょうか。「花」は無心の象徴とされます。こころをいまやっていることに一心に集中して全生命を注ぐ。その大切さを「花」はあらためて教えてくれます。

※山本玄峰老師(1866年〜1961年)は静岡県三島市の龍澤寺の住職で、昭和の傑僧と呼ばれた。その弟子には鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人などの政治家をはじめ、経済界にも多くの名士がいた。平井正修の父・玄恭(全生庵六世)は40年以上にわたり玄峰老師に仕えた。その縁で玄峰老師は全生庵でよく提唱や講義を行い、また書も遺している。

平井 正修(ひらい しょうしゅう)

臨済宗国泰寺派全生庵住職。1967年、東京生まれ。学習院大学法学部卒業後、1990年、静岡県三島市龍澤寺専門道場入山。2001年、下山。2003年、全生庵第七世住職就任。2016年、日本大学危機管理学部客員教授就任。現在、政界・財界人が多く参禅する全生庵にて、坐禅会や写経会など布教に努めている。『最後のサムライ山岡鐵舟』(教育評論社)、『坐禅のすすめ』(幻冬舎)、『忘れる力』(三笠書房)、『「安心」を得る』(徳間文庫)、『禅がすすめる力の抜き方』、『男の禅語』(ともに三笠書房・知的生きかた文庫)など著書多数。