秋の季語に「竹の春」という言葉があるそうです。

おのが葉に 月おぼろなり 竹の春  蕪村

竹は秋にもっとも翠々(みどりみどり)として勢いを増し、自らの葉で月の姿がおぼろげにしか見えなくなっている情景を詠んだ与謝蕪村の句です。

禅宗では、竹は松や梅とともに「歳寒の三友」といわれ、いわゆる寒さに耐えるというところから喜ばれる樹木です。竹と松は常緑樹で寒い中でも翠を失わず、梅は寒さの中で百花に先んじて花を咲かせていち早く春を告げます。なかでも竹は、禅宗の宗祖達磨大師がインドから中国に渡り、禅を普及させた江南(※1)の地が竹の名産ということもあってか、竹にまつわる禅語はいくつもあります。美しく涼やかな竹林はかつて清談の場であり、「清風動脩竹」(せいふうしゅうちくをうごかす)(※2)とか、「竹葉葉起清風」(たけようようせいふうをおこす)(※3)といった禅のこころを表現した言葉も多く残されています。いまでも禅寺に行けばどこかに竹が植わっています。私が修行した静岡県三島にある龍澤寺にも広大な竹林があって、春には修行の一つとしてひたすらタケノコ掘りをしたのを懐かしく思い出します。

竹にまつわる禅語として恐らくもっとも知られているのは、「竹有上下節」(竹に上下の節あり)ではないでしょうか。そしてこの禅語にはいろいろな意味・解釈が加えられています。文字どおり、竹に上下の節があるように、人間にも区別があって、どんなに仲が良くてもそれぞれの立場や考え方があり、礼儀や節度を守らなければ社会の調和は保たれないということです。また、上下に節があるのは竹の根本・基本のかたちであり、これをおざなりにしてはならないという教えです。たとえば、歌舞伎の世界でいう「形無し」と「型破り」の違いと同じで、基本のかたちを身につけていなければ、型破りな演技として評価されることはなく、単に形無し(台無し)になってしまいます。

「辛巳初冬日書於全生庵鐵舟居士」(辛巳(かのとのみ、明治14年)の初冬の日に全生庵に於いて書す 鐵舟居士)

また竹は、上下の節と節の間が中空で、それが連なったおもしろい構造になっています。全部が節だと曲がらないし、全部が中空だとすぐに折れてしまいます。節のもつ堅さと中空のもつしなやかさのバランスがとれていることで、竹はそのしなやかな強さを保っているわけです。私たちの普段の生活は竹でいえば中空の部分です。これに対して創業何周年とか、結婚記念日とか、お正月といったさまざまなイベントが節の部分です。普段の生活に流されるばかりだけでは、いつかこころも身体も折れてしまいます。そこで竹と同じように、組織としても個人としても節目のもつ役割が大切になります。それぞれが節目を作ることで、過去をしっかりと認識し、未来を展望するとともに、現在を見つめ直す機会となります。過去・現在・未来を俯瞰し、自分自身の今を見つめ直して行動を起こす節目をもつことで、組織や個人が生きていくなかで何かが生じた時、強い風が吹いて嵐になった時に、その対応力に差が現れると思います。ますます内憂外患の難しい時代と簡単には片づけられませんが、硬軟両面をあわせもつ竹のように、力強いしなやかさを身につけたいものです。

※1 江南:現在の河南省。その鄭州市登封に達磨大師が修行した嵩山少林寺がある。
※2 清風動脩竹:ありのままの現象も大事だが、それに執着してはいけないといった意。
※3 竹葉葉起清風:竹の葉が清風を送っているさま。竹林の美しさを表現した語。

平井 正修(ひらい しょうしゅう)

臨済宗国泰寺派全生庵住職。1967年、東京生まれ。学習院大学法学部卒業後、1990年、静岡県三島市龍澤寺専門道場入山。2001年、下山。2003年、全生庵第七世住職就任。2016年、日本大学危機管理学部客員教授就任。現在、政界・財界人が多く参禅する全生庵にて、坐禅会や写経会など布教に努めている。『最後のサムライ山岡鐵舟』(教育評論社)、『坐禅のすすめ』(幻冬舎)、『忘れる力』(三笠書房)、『「安心」を得る』(徳間文庫)、『禅がすすめる力の抜き方』、『男の禅語』(ともに三笠書房・知的生きかた文庫)など著書多数。