右:一般社団法人日本トップリーグ連携機構会長 川淵三郎氏/左:日立製作所執行役常務 産業・流通ビジネスユニットCEO 阿部淳
地域社会に根ざしたプロサッカーリーグの創設とその後の日本サッカーの発展をけん引してきた日本トップリーグ連携機構会長の川淵三郎氏。Jリーグやワールドカップ日本代表チームの強化などに関する興味深い話題を通して、ビジネスの世界にも役立つリーダーシップやチームづくりの要諦、挫折感や衝撃を良い方向に転じる考え方などについて、日立製作所執行役常務 産業・流通ビジネスユニットCEOの阿部淳と語り合っていただいた。

学生時代の日立との「縁」と思い出

阿部 
Jリーグを立ち上げ、その後もサッカーの発展に力を発揮していらっしゃった川淵さんに、本日は、ぜひ、リーダーシップや組織運営のあり方などについてお教えいただきたいと思っております。

川淵
ぼくは、日立さんとは何かとご縁があるので、本日も対談させていただくことを楽しみにしていました。ぼくが学生だった当時、サッカーの関東大学リーグで優勝すると、日立さんに招待してもらえました。茨城県の日立市に1泊か2泊して、日立製作所のサッカー部と試合をして、ご馳走してもらいました。その頃は食べるものが十分にない時代でしたからすごく嬉しかった。また、洗濯機などをつくっていた多賀工場のチームとも試合をしたことがありました。その工場には女性が大勢勤めていて、応援に来てくれました。それで選手はみんな喜んでいました(笑)。ぼくは、大学4年間で3回優勝しましたから、3回日立市に行っているということです。ですから日立の町にはいろいろな思い出があります。日立製作所創業者の小平浪平さんの記念館を訪れたこともあったので、創業時の話もよく知っていますよ。それから、水戸工場のエレベーター研究塔は日本一の高さがあるという話も聞きました。いまでもあの付近を車で通って、高いエレベーターの研究塔を見ると、その頃聞いた話を思い出します。

阿部 
当時、日本のサッカーといえば、学生チームと実業団チームが中心だったわけですね。

川淵 
そうです。ですから、就職の時には、日立製作所からも熱心にお誘いいただきまして、魅力を感じていました。それでも、古河電気工業(古河電工)に、早稲田大学サッカー部のキャプテンを務めていた先輩で、日本代表チームのキャプテンをしていた八重樫さんがいらしたので古河電工に就職することにしました。

挫折体験をきっかけにサッカーのプロ化に取り組む

阿部 
川淵さんは、サッカー選手としての現役を引退された後は、サッカーの世界から離れて、古河電工の仕事に打ち込んでいかれたわけですね。ご著書を拝見すると、古河電工の仕事でも、かなり成果を上げられていたようですが。

川淵 
自分としては、実績を上げてきたと自負していましたから、名古屋の営業部長をしていた時は、このあと本社の営業部長になって、最終的には取締役になれるんじゃないかと考えていました。ところが、51歳でいきなり関連会社に出向を命じられました。それで大きな挫折感を味わい、会社を辞めようと思いました。もっと自分の価値を分かって、使ってくれる会社に行こうと考えたわけです。でも、自分の何を売り込めば良いかと改めて考えてみると、仕事の上で自分の武器はこれだというものが何もないことに気づきました。結局は、古河電工の名刺があったからこそやれてきたのだと痛感しました。

阿部 
確かに、会社員というのは、会社の看板を前提にして仕事をしている面が大きいですね。それでも川淵さんは古河電工を辞められて、サッカーのプロ化に取り組まれたわけですが、それはどういうお考えがあったのですか。

川淵 
このまま会社員を続けていっても、自分としては先が見えたような気がしましたから、なんとか自分の生きた証となるような、生きがいを持てる仕事をしたいと考えました。その時、たまたま、日本サッカーリーグ(JSL)の総務主事をやってもらえないかという話がありました。当時、プロ化の話が持ち上がっていて、ぼく自身は、プロ化しても成功するわけがないと思っていましたが、ひょっとしたら、という思いがあり、引き受けることにしました。ぼくもそうでしたが、JSLのチームを持つ企業も日本サッカー協会の関係者もプロ化には反対でした。なぜなら、当時は、サッカーはマイナースポーツでまったく人気がありませんでしたからね。でも、選手として海外の様子を見ていて、世界ではサッカーはたいへん人気のあるスポーツだということを知っていました。それで、サッカーのプロ化に、自分の経験や力を生かせないだろうかと思い、サッカーの世界に戻ることにしました。

阿部 
サッカーのプロ化に取り組まれた原点は、51歳で関連会社への出向を命じられたことにあると言えそうですね。

川淵 
あの時に、自分が挫折と感じるような人事異動を命じられなければ、サッカーの世界には戻っていなかったでしょう。何がきっかけになるか分かりません。また、その時はマイナスと思えたことでも、その後、そのきっかけをどう生かすかによって、良いきっかけにも、悪いきっかけにもなるんだと思います。ネガティブに考え出したら、どんどん悪い方に行ってしまいますから、つねに前向きに努力していくことが大切です。

川淵 三郎(かわぶち・さぶろう)
1936年、大阪府出身。早稲田大学サッカー部在学中にサッカー日本代表に選出。1961年古河電気工業に入社。1970年、現役引退。日本代表監督などを経て、1991年Jリーグ初代チェアマンに就任。2002年日本サッカー協会会長。2014年から日本バスケットボール界の改革に関わる。2015年、日本トップリーグ連携機構会長。2016年、日本バスケットボール協会エグゼクティブアドバイザーに就任。2018年より日本サッカー協会相談役。『虹を掴む』、『「J」の履歴書』、『51歳の左遷からすべては始まった』、『采配力』、『独裁力』、『黙ってられるか』など著書多数。

阿部 淳(あべ・じゅん)
1984年 株式会社日立製作所入社、2001年 ソフトウェア事業部DB設計部長、2007年 日立データシステムズ社 シニアバイスプレジデント、2011年 ソフトウエア事業部長、2013年 社会イノベーション・プロジェクト本部・ソリューション推進本部長、2016年 理事 サービス&プラットフォームビジネスユニット 制御プラットフォーム統括本部長(大みか事業所長) 兼 ICT事業統括本部 サービスプラットフォーム事業本部長、2018年 執行役常務 産業・流通ビジネスユニットCEO

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