嵯峨生馬氏が日本でいち早くプロボノの運営を始めてから、今年で13年。第3回では、プロボノを取り巻く社会の変遷について、日本の“ボランティア元年”と呼ばれる1995年までさかのぼって解説していただいた。さらに、嵯峨氏が「まだまだ高まる余地が大きい」と語るプロボノの認知度を高めていくためのビジョン、自身が率いる認定NPO法人サービスグラントの活動に賭けるモチベーションの源泉を探った。

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嵯峨氏が振り返る“プロボノ元年”までの道筋

嵯峨生馬氏がサービスグラントの活動を始めたのが2005年。そして、企業と連携したプロボノプロジェクトを始めたのが2010年。それはちょうど、プロボノというワードがテレビをはじめとするマスコミに取り上げられ始めた時期だった。

「プロボノ関係者の間では、2010年を日本における“プロボノ元年”と呼んでいます。アメリカで起きたムーブメントからは10年近く遅れているんですけどね」

2010年というタイミングについて、嵯峨氏は独自の分析をしている。

「阪神淡路大震災が起きた1995年は、災害復興で多くの市民ボランティアが活躍し“ボランティア元年”と呼ばれました。こうして市民ボランティアに注目が集まったわけですが、行政は個人や任意団体と業務委託契約を結べなかったために、継続的なボランティア活動は難しかった。そこで1998年にNPO法(特定非営利活動促進法)が施行されました」

ただ、依然としてNPO=ボランティア=ただ働き、つまり「非営利なんだからお金をもらってはいけない」というイメージが世間には根強くあった。風向きが変わったのは2000年代の中盤、「社会起業家」と呼ばれる人たちが現れ始めてからのことだと言う。

「株式会社マザーハウスの山口絵理子さんや認定NPO法人フローレンスの駒崎弘樹さんといった、ビジネスの手法を通じて社会課題を解決しようとする人が新しいロールモデルとして何人か出てきたことで、企業に勤めていた人たちも『ソーシャルビジネスで飯を食っている人が実際にいるんだ』と気づき、比較的若い層を中心に社会起業家への共感が広がっていったのではないでしょうか。同じ頃、短期的な利益を追求し、法の抜け穴を利用したマネーゲームが繰り広げられるという真逆のニュースがメディアを賑わせたことで、『金もうけに走ったところで、本当に幸せか』みたいな空気が彼らのなかでいっそう強くなったように感じます。その風潮にとどめを刺したのが、2008年のリーマンショックでした。

リーマンショック以降の景気の冷え込みとは対照的に、社会貢献に対するビジネスパーソンの関心はますます高まっていきました。とは言っても、NPOやソーシャルビジネスに転職するのは簡単ではないですし、自分で起業するのは相当難しい。会社にとどまりながら社会貢献できる方法はないものか…そんなニーズが高まりプロボノが注目を浴び始めたのが、2010年というタイミングだったのではないでしょうか。

NPOの誕生から数えると、今年でちょうど20年です。それだけの年月をかけて、今ようやく日本のソーシャルセクターが成熟しつつあるのかなと思います」

日本の各地に“プロボノコーディネーター”を

2010年以降のプロボノを取り巻く社会の変化、そしてビジネスパーソンの変化を嵯峨氏はどう見ているのか。

「先ほどお話ししたように、ソーシャルというテーマに関心を持つ人の絶対数が増えたと思います。社外の人とプロジェクトを組むとか、あるいは土日にセミナーや異業種交流会に参加するといった動きがだいぶ一般的になりました。さらに近年、働き方改革に多くの企業が乗り出したことで、長時間労働対策で生まれた自由な時間をプロボノに使いたいという人も結構いらっしゃいます。人生100年とも言われる時代になって、一昔前のように毎日会社と自宅の往復だけではまずいよね、何か他のことを始めたほうがいいよねという機運が世の中で高まっています。そういう意味でも、プロボノは以前より参加しやすくなったのではないかと思います。副業よりハードルが低いですし、お金も絡まないですからね」

ただ、「世間のプロボノの認知度はまだまだ高まる余地が大きい」と嵯峨氏は指摘する。

「今、首都圏でようやく1割くらいのビジネスパーソンに認知されているかな…というレベルです。地方へ行ったらもっと低いはず。それでも2005年時点の認知度に比べたら桁が3つ4つ上がっていると思いますよ、間違いなく」

プロボノのさらなる普及に向けて、嵯峨氏はどんなビジョンを描いているのか。

冒頭でお話ししたように、サービスグラントの役割はプロボノワーカーと支援先団体をつなぐこと。いわば中間支援組織です。その役割を担うのは、例えば行政機関や、それぞれの地域のボランティアセンターでもいいわけです。そういった各地域の団体にプロボノのコーディネートのやり方を身につけていただくという取り組みを、今ちょっとずつ広げているところです。

わたしたちサービスグラントが支部を増やしていくような展開の仕方は現実的ではない。首都圏から地方に出かけて行う『ふるさとプロボノ』という支援プログラムも提供しているのですが、交通費の問題もあってあまり頻繁にはできていません。そもそもボランティアって基本的にローカルなものですから、地産地消が一番いいんです。

プロボノワーカーのように専門のスキルを持ったボランティアスタッフを集めるには、企業人とのネットワークが欠かせません。ローカルの行政機関やボランティアセンターがコーディネーターになって企業人をうまく巻き込めれば、すそ野が広がってもっとお互いにハッピーになると思うんです。言い換えると、サービスグラントのような存在が日本の各地にある。そんな姿をめざしています」

プロボノワーカーが事務局を追い抜くとき

2005年にサービスグラントとしてNPO活動を始めるまで、嵯峨氏はシンクタンクに勤務し、研究員として地域づくりやNPO活動に関する調査業務を担当してきた。安定した職を自ら手放し、NPO活動に専念するには相当な覚悟を要したはずだ。そのモチベーションはいったいどこから来るのか。

「恥ずかしがらずに言うと、今わたしがやっているプロボノの運営って、世の中にとって間違いなくいいことだと思いますし、自分自身が納得できる仕事なんです。後ろめたさがまるでない。だから今も変わらず、高いモチベーションで打ち込めているのだと思います。

社会人のたしなみとしてプロボノに参加してNPOの活動に触れることは、ビジネスパーソンの皆さんにとって必ずプラスになりますし、プロボノワーカーを送り出す企業の担当者の方も、社員が刺激を受けたり、社員が作った成果物でNPOの方やその支援者が笑顔になる様子を見るのってすごく嬉しいと思うんですよ」

今、サービスグラントの職員は15人程度。その小さな組織が大企業と連携し、プロボノを行っている。「その状況が非常に面白いんです」と嵯峨氏は語る。

「小さな組織でも、大きな企業と一緒に仕事ができるのが今の時代です。社会のなかで、何かをちょっとでも前進させる原動力に自分たちがなっている。そんなことを感じながら日々活動しています」

NPOを支援して、その先にある社会課題の解決に貢献し、同時にビジネスパーソンの働きがいを刺激するプロボノ。首都圏・関西圏をはじめとする各地の支援先団体を飛び回り、多忙な日々を送り続ける嵯峨氏に、サービスグラントの活動で一番働きがいを感じる瞬間を教えてもらった。

「プロボノプロジェクトがスタートする段階では、まずわたしたち事務局が支援先のNPOに課題をヒアリングして、支援内容を調整します。当然、プロボノワーカーの皆さんよりも支援先のことを熟知しているわけですが、プロジェクトが進むにつれて圧倒的にプロボノワーカーが持つ情報量のほうが多くなって、わたしたちをどんどん追い抜いていくんです。プロジェクト期間中、支援先でのミーティングに事務局も同席するんですが、もはや口を挟む余地なんかないような雰囲気になっていて、プロボノワーカーとNPOの人たちだけですいすい議論が進んでいく。

そういうときに、『すごくいいな』って思うんです。事務局が手助けしなくても、プロボノワーカーと支援先だけでプロジェクトが自走していく状態、両者が協働する関係が成立している状態、すごく健全で前向きなことだなと。

例えばですけど、サービスグラントだけで解決できるNPOの課題って、どんなにがむしゃらに働いても年間10とか20くらいの量だと思うんです。だけど、わたしたちがNPOとプロボノワーカーをつなげることで、その人たち同士で熱く議論して、しかもいろいろなアイデアが出て、そこから生まれてくる成果物があって…そんなプロジェクトが年間100以上も動いている。そう考えると、てこの原理が効いてたくさんのインパクトを世の中に生み出せているのを実感できるんです。この活動をやっていてよかったなと思いますね」

嵯峨生馬(さがいくま)
1974年、神奈川県横浜市生まれ。1998年、東京大学教養学部を卒業し株式会社日本総合研究所に入社。研究員として官公庁・民間企業とともにIT活用、決済事業、地域づくり・NPOなどに関する調査研究業務に従事した。2001年に渋谷を拠点とする地域通貨「アースデイマネー」の運営を開始し、2003年からNPO法人アースデイマネー・アソシエーション代表理事。2005年に日本総研を退職し、サービスグラントの活動を開始。2009年にNPO法人化し、代表理事に就任。著書に『地域通貨』(NHK生活人新書,2004年)、『プロボノ〜新しい社会貢献 新しい働き方〜』(勁草書房,2011年)など。

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