一橋大学ビジネススクール教授 楠木建氏/株式会社日立製作所 フェロー兼未来投資本部ハピネスプロジェクトリーダ 矢野和男
『「好き嫌い」と才能』『好きなようにしてください』などの著書で知られる経営学者・楠木建氏は、雇用のミスマッチが後を絶たない社会の現状に疑問を呈している。今、日本人一人ひとりが幸せな働き方を実践するために必要な視点とは何か。そして、日立製作所の矢野和男が開発したアプリケーション「Happiness Planet」がもたらす処方箋とは。

『第1回:「ハピネス」は、体の動きで測れる』はこちら>
『第2回:「ハピネス」は、競いあわせて伸ばす』はこちら>

仕事は「機能」ではなく「好き嫌い」で分類を

楠木
僕が実際のビジネスの組織を見ていて非常にもったいないと思うのは、人間の仕事の定義が、「機能」でもって分類されていることです。大雑把に言うと、経理、財務、人事、マーケティング、営業といったように。まあ、アメリカのように歴史的に労働力の流動性が高い社会では、機能ごとに労働市場が生まれるのでそのほうが自然だとは思うんですが。

ただ、機能定義とは別に個人の「好き嫌い」というものがあって、例えば同じ「営業」の仕事でも、飛び込み営業なら大好きで成果もたくさん出せるけど、窓口営業は勘弁してくれ、みたいなことってあると思うんです。

ところが労働市場側の機能定義では、消費財の営業なのか、生産財の営業なのかというふうに、機能によって仕事が階層化されていく。市場が個人の好き嫌いをうまく拾えていないので、営業として分類されるポストに就いたとしても、自分が必ずしも好きじゃない、成果も出せないような仕事をアサインされちゃったりして。一方で、当人も自分の「好き」のツボをわかりやすく表現できない。だからいつまでも「機能」のラベルで好き嫌いを表現しようとする。その挙句「自分には営業は向いてないので、マーケティングに異動させてください」なんて頓珍漢なことが起こるという。本当はマーケティングが好きなわけじゃないんですね。

要するに僕は、機能による仕事の定義には限界があると思うんです。働く本人も企業も、個人の好き嫌いのツボを把握していれば、世の中の生産性はかなり上がるんじゃないかと。

矢野
それはまさに、Happiness Planetで我々がやりたいことです。個人が好きなこと、できること、あるいは「今日挑戦してみたいこと」って人によってまったく違うし、だれかから押し付けられることではなく自分の意思からスタートするべきものなんですよね。それぞれの個人の意思による多様な行動が同時並行している状態こそが、健全な社会なんじゃないでしょうか。

今、ビジネスに足りない言葉

楠木
趣味に関しての好き嫌いだと、だれでも言語化しやすいんですよね。「音楽が好き」だけだと単なるカテゴリーってことですけど、「じゃあクラシックが好きなの?」「いや、僕が好きなのはロックで、しかもビートが利いてるやつ」「じゃあ、例えばこんな曲好きでしょ?」というふうに、お互いの好き嫌いをスムーズに理解できる。自分が何を好きなのかを言語的に理解しているから、生活の中で応用できるわけです。

ところが仕事は、好き嫌いじゃなくて良し悪しなんだよという風潮がありますよね。仕事になった途端に個人の好き嫌いが捨象されてしまう。仕事の好き嫌いのツボみたいなものが効率的に特定できるようになったら、かなり大きなイノベーションになると思います。今までの企業の人事や労働市場を一変する力があるんじゃないかと、僕は夢想するんですよね。でも残念ながら今の僕たちはまだ、それを説明できる言語を持たないので、仕事に違和感を覚えても「なんか違うな」としか言えない。

いっとき「動物占い」って流行ったでしょう? いくつか簡単な問診に答えると、あなたはチーター、あなたはクマさんみたいに12種類の動物に分けられる占いですけど、あれがなぜ一時的にウケたかというと、自分のことを正確に理解するのが目的なんじゃなくて、要はコミュニケーションが成り立つからなんです。「俺、チーターだった」「やっぱり! そうだと思ったよ」みたいな。

これに似たことが労働市場でも起きてしまっている。生産性に一番影響を与えそうな個人の「好き嫌い」よりも、職種や機能専門性ばかりが注目されているように感じます。先ほどもお話ししましたが、僕にゲラ直しさせるとものすごく生産性が高いんですよ。それをだれかが見つけてくれれば僕のところにもっとゲラ直しの仕事が来るはずなんですが、大学教員とか研究者という今の職種の分類ではすくいきれない。

僕が勤めている大学の事務職員を見ていても、実にいろいろな人がいます。整理整頓がすごく得意で、何か探し物があるときはその人に聞けば「はい、ここにありますよ」ってすぐに解決してくれる人。逆に、デスクは散らかっているんだけど、予算申請のことならたいがい何とかしてくれる人。こういう多様性って、まさに個人の好き嫌いを反映してると思うんですよね。でも今、ビジネスで使用されている言語ではすくいきれない。全員がひとくくりに「事務職員」。機能と同じように好き嫌いを特定する共通言語ができるといいなあと思います。

“至福のとき”は可視化できる

矢野
わたしは以前、好きなことに没頭しているときの心理状態「フロー体験」を提唱した心理学者のミハイ・チクセントミハイさんと共同で、加速度センサで「フロー」の状態を測るという研究をしたことがあります。そのチクセントミハイさんが開発したExperience Sampling Method(ESM:経験抽出法)という調査手法があります。被験者の行動や思考を1日の中でランダムに記録してもらい、どんなときにフロー状態にあるのかを調べるための手法です。

我々はそれをHappiness Planetに応用しました。1日3回、約90分に1回くらいのランダムさで、「今何してる?」っていう短いアンケートをアプリユーザーのスマートフォンに突然送って、3秒くらいで答えてもらうんです。

それを2週間ほど続けると、回答がひとりにつき何十個か蓄積されるので、例えば「この人は会議のときにすごく充実感を持ってる」なんてことがわかるんです。要するに、一人ひとりが仕事に打ち込めている瞬間が見えてくる。これを人事マネジメントに本格的に活用しているお客さまもいらっしゃいます。

楠木
それ、いいですね。僕も自分の好き嫌いのツボ、もっとよくわかりたいなと思います。仕事柄、学会に参加することが多いんですが、興味が湧かない発表を聴いてるのがかなり嫌いなんですよ。Happiness Planetでそのときの僕を測ったら相当不幸な状態にあると思いますよ。でも自分がしゃべるのはもちろん楽しくて、そういう場で人から批判されたりネガティブな突っ込みを受けたりするのはかなり好きで。

矢野
それもまた素晴らしいですね(笑)。

楠木
僕がこう言うと向こうが何て言ってくるかな…って考えるプロセスが楽しいので、ハピネス度はかなり上がってると思うんです。そういう、僕がハッピーもしくはアンハッピーだと感じているありとあらゆる事象を1万個くらい抽出してもらって、そのうえで「あなたのハピネスのツボはここですよ」と教えてくれるものがあったら最高です。しかもそれがスマホで使えるとなると非常に便利だなと思います。

矢野
それに近いことが、Happiness Planetならできますね。

楠木 建
1964年、東京都生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。著書に『「好き嫌い」と才能』、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』、『「好き嫌い」と経営』、『戦略読書日記』、『経営センスの論理』、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』など。

矢野 和男
1959年、山形県生まれ。1984年、早稲田大学大学院理工学研究科物理学専攻修士課程を修了し日立製作所に入社。同社の中央研究所にて半導体研究に携わり、1993年、単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功する。同年、博士号(工学)を取得。2004年から、世界に先駆けてウェアラブル技術とビッグデータ収集・活用の研究に着手。2014年、自著『データの見えざる手 ウェアラブルセンサが明かす人間・組織・社会』が、BookVinegar社の2014年ビジネス書ベスト10に選ばれる。論文被引用件数は2,500件にのぼり、特許出願は350件超。東京工業大学大学院連携教授。文部科学省情報科学技術委員。

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