一橋ビジネススクール教授 楠木 建氏

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企業に限って言えば、働き方改革の目的は長期利益の増大にあります。そのためには生産性を向上していく必要があるのは言うまでもありません。生産性っていうのは、典型的なバランス指標です。分母にインプット(投入資源)があり、分子にアウトプット(生み出された成果)がある。より少ないインプットでより多くのアウトプットを得る。これが「生産性が高い」ということ。平均的に見れば日本はまだまだ低いので、働き方改革で生産性を上げようというのは、その通りです。

働き方改革では、いろんな法令、規制、ルールが政府主導で設定されます。ルールの本質っていうのは、個別の企業の事情を超えているっていうことです。つまり、社会的にひとつのものにみんなが乗っかる普遍性、汎用性がルールの本質です。ルールの目的は誰が見ても悪い状態を排除することにあります。そのもっとも強力なバージョンが法で、働き方でいえば労働基準法などです。

最低賃金とか、これはもう憲法そのものですが性別とか信条で雇用を差別してはいけないとか、こういうことは普遍的なルールなんで、もう全員が守らなきゃいけない。こうしたルールって、先ほどの分数でいうと全部分母、インプット(投入資源)の話です。

中でもいま議論になっているのって、「時間」でしょう。労働時間とか育休とか、基本的に時間の問題になっちゃう。なんで時間の問題になるのか、その理由はクリアで、時間っていうのがもっとも普遍的で議論の対象になりやすいからなんです。計れるし、24時間しかないのはみんな同じで、事情とか仕事とか性格とかが違う人たちみんなが乗ってきやすい議論の題材。ですから時間という方向に話が行くのは、非常に自然な流れです。

こういう議論によって明らかな苦痛や理不尽が減って、だんだんより良い社会になっていくっていうのは、大げさに言えば、ようするに「文明の進歩」みたいなもの、すべてのベースだと思うんです。

ちょっと話はそれるんですが、僕は53年しか生きていませんが、世の中の価値観って結構変わるんだなっていうこと、最近になってわかってきました。僕は昭和の生活の経験があるわけですが、振り返ってみれば、昭和の日本ではしょっちゅう人が殴られていました。

僕が中学生のときに、旅行がしたくて、ちょっと知り合いのケーキ屋さんでもぐりのバイトをさせてもらったことがあるんですよ。クリスマスケーキの繁忙期の軽作業で、ハードコアな肉体労働でもありません。ケーキ工場というのはわりとフェミニンな職場だとすら思っていたのですが、ミスをした工員を班長さんがガンガン殴っているんです。それを見ていた僕は、「人を殴るなんて間違ってる」とは思わなかった。学校でも先生に普通に殴られていましたから、昭和の中学生としてはむしろ「やっぱり大人の世界って、すげぇ気合入ってんな」みたいな、「いやこれは結構マジなんだな、大人は」って思ったんですね。

自動車教習所に通っていたときも、荒っぽい教官が比喩ではなく殴る蹴るなんです。さすがにこれはどうなんだと思って、その教官を所長のところに連れて行って「このおじさんが僕を殴ったり蹴ったりするんでこいつ何とかしてください」って言ったんです。そうしたら所長が「まぁお前、そういうこともあるよ」みたいな感じで、「気が合わないんだよ、お前ら」って。

いま、こんなことがあったら、それは即犯罪だし、その教習所は廃校に追い込まれるような話ですよね。これって、文明の進歩だと思うんです。セクハラも昔より少なくなったし、殴るなんていうパワハラもいまはほとんどないでしょう。その辺は僕は割と楽観的で、人間の歴史を長いスパンで見ると、文明はペイン(痛み)を減らす方向に確実に進化する。そのひとつとして、明らかに変なことはルールで禁止しようぜっていうことになる。

生産性に話を戻すと、法規制やルールの話はマイナスをゼロに近づけることでしかないんです。これはこれで大切ですが、ゼロからプラスをつくっていくのはやはり個別の企業の経営にかかっている。そこまでは政府は手を出せませんし、また出すべきでもない。

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。
著書に『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

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