Hitachi
お問い合わせお問い合わせ
今月のテーマは、楠木氏が最も尊敬する偉人、高峰秀子。昭和の大女優として名を馳せた彼女との出会いとは。

「第1回:大女優にして名文家。」
「第2回:客観の人。」はこちら>
「第3回:劣情と教養。」はこちら>
「第4回:プロの生活者。」はこちら>
「第5回:人間の天才。」はこちら>

※本記事は、2022年8月4日時点で書かれた内容となっています。

今回は僕が私淑している高峰秀子さんについてお話しします。と言っても、僕より若い世代の方にはピンとこないでしょうし、僕の世代でもよく知らない人が多いかもしれません。

高峰さんは昭和の映画絶頂期を代表する大女優でした。1924年に生まれ、5歳でデビュー。天才子役として大活躍し、戦前は売れっ子のアイドルみたいな感じで数多くの映画に主演しました。イメージしにくいかもしれませんが、まだテレビがなかった当時、映画産業が大衆のエンターテインメント全体の大部分を占めていた。その映画界で大スターとして君臨し続けた高峰さんは、現在ではちょっと想像しにくいぐらいの圧倒的な存在でした。

戦後になると大人になった高峰さんは、実力派の女優に脱皮していきます。ありとあらゆる役の本質をつかんで見事に演じきる、真の実力派。戦後、全盛期を迎えた日本の映画界の頂点に立った女優です。

彼女の実力は、後世の評価を見ても明らかです。2014年に『キネマ旬報』が企画した「オールタイム・ベスト日本映画女優部門」で第1位(※1)。同じく『キネマ旬報』が2000年に特集した「20世紀の映画スター」でも、読者選出の女優部門で第1位になっています(※2)。

※1 キネマ旬報社『オールタイム・ベスト映画遺産 日本映画男優・女優100』(2014年)より。
※2 キネマ旬報社『キネマ旬報 2000年6月上旬号 20世紀の映画スター 女優篇』(2000年)より。

さまざまなエンターテインメントやメディアが世の中にある今、かつての映画のように圧倒的な支配力を持つメディアはもう今後出てこないと思います。そう考えると高峰さんは日本映画界最高にして最大の名女優であり、エンターテインメント産業の構造的からして彼女以上の映画女優は二度と現れないのは間違いないところだと思います。

高峰さんには有名な作品がたくさんあります。当時国民的映画と呼ばれた木下惠介監督の『二十四の瞳』。後世になって多くの人が「最高傑作だ」と評している、成瀬巳喜男監督の『浮雲』。これらは高峰さんの主演作品の中でも歴史に残る名作と言われています。

高峰さんは30歳でご結婚なさった後、映画出演のペースを落とし、55歳で女優業から退きます。86歳でお亡くなりになるのですが、後半の人生は文筆家として名文で名を馳せました。つまり、前半が大女優、後半が文筆家という人生をお送りになった方です。

僕が高峰秀子さんを知ったのは、世代からして文筆家としてです。高峰さんの生き方を尊敬している方は僕の世代にもたくさんいらっしゃると思いますが、おそらくそのほとんどが、映画女優としての高峰さんよりも文筆家としての高峰さんのファンなのだと思います。

初めて高峰さんの文章に接したのは高校生のときです。現代国語の教科書に「黒」というタイトルの短いエッセイが載っていました。そのときは大して印象に残らなかったのですが、ハッキリ覚えているのはその言葉遣いです。「色」について論じられた文章の中に「白も黒も、のっぴきならない色である」という一文がありました。それまで僕は「のっぴきならない」という言葉を知らず、辞書を引いて意味を知ったわけですけど、カッコいい言葉遣いだなと。これが高峰さんとの出会いです。

この連載でもお話ししてきましたが、僕は自分の仕事を広い意味での「芸事」と捉えています。ですから、芸事に従事した人から本を通じて影響を受けやすい。例えば、日本テレビのプロデューサーとしてテレビの創世記に活躍された井原高忠さんの『元祖テレビ屋大奮戦!』を大学生のときに読んで、ものすごく感銘を受けました。その後、今の仕事を始めた頃に小林信彦さんの『日本の喜劇人』を読み、そこに描かれている戦前戦後の日本の喜劇人の生き方から強い影響を受けました。

その後に読んだ高峰秀子さんの著作は、僕にとって強く、広く、そして深く影響しています。以前お話ししたディープインパクトです。仕事や生活のいろいろな局面で無意識のうちに、「高峰秀子さんならどう考えるだろう」「こういうときに高峰秀子さんだったらいったいどうするだろう」と自問自答する。それが習慣化しているぐらい、高峰さんの影響は僕の価値基準のかなり奥深いところに及んでいます。

先だって、若くして亡くなった西村賢太さんという私小説家がいらっしゃいます。僕は西村さんの作品が好きで、お亡くなりになったときも追悼の意を込めた書評を書きました(「破滅への加速 西村賢太の10作」 本の雑誌社『本の雑誌 2022年6月号』)。

彼が私小説家になったきっかけは、明治から大正、昭和の初期まで活動していた藤澤清造さんという小説家です。西村さんが中学を出て肉体労働に従事していた頃、すがるように読まれたのがこの藤澤清造さんの小説でした。西村さんは生前、藤澤清造の「没後弟子」を自認していました。生きた時代が違うのでもちろん直接のやりとりはないし、会ったこともないけれども、弟子であると。その思い入れは尋常でなく、藤澤清造さんのお墓の隣に生前からご自身のお墓を建てられたほどです。僕はそこまでではありませんが、感覚としては「高峰秀子の没後弟子」。そのくらい深い影響を受けています。(第2回へつづく)

「第2回:客観の人。」はこちら>

画像: 心の師「高峰秀子」の教え―その1
大女優にして名文家。

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。

著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

楠木教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/

ご参加をお待ちしております。

楠木健の頭の中

シリーズ紹介

楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」

山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

協創の森から

社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。

新たな企業経営のかたち

パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

Key Leader's Voice

各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。

経営戦略としての「働き方改革」

今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。

ニューリーダーが開拓する新しい未来

新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。

日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性

日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。

ベンチマーク・ニッポン

日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。

デジタル時代のマーケティング戦略

マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。

私の仕事術

私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。

EFO Salon

さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。

禅のこころ

全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。

岩倉使節団が遺したもの—日本近代化への懸け橋

明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。

八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~

新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。

This article is a sponsored article by
''.