新たな高等学校農業教育のあり方を探るため、40歳にして大学院に進んだ佐藤氏。2年間の研究を経て五所川原農林高校に戻ったのち、やがて校長として再び同校に赴任し、リーダーとして農業教育を変革するチャンスを得る。佐藤氏の教育方針を決定づけた大学院での研究と、学校を挙げた6次産業化への取り組みに至った経緯、そしてその思いについて話を聞いた。

画像: プロフィール 佐藤晋也 (さとうしんや) 青森県立五所川原農林高等学校校長。1954年、五所川原市生まれ。五所川原高校から東京農業大学農学部に進み、果樹の栽培技術を学ぶ。卒業後は青森県内の養護学校の教員を7年間務め、1984年から五所川原農林高校の教諭に。1993年から、弘前大学大学院教育学研究科修士課程学校教育専攻にて高等学校農業教育を研究。1995年に教育の現場に戻り、柏木農業高等学校を経て2010年より現職。2012年、五所川原6次産業化推進協議会を設立し、会長に就任。

プロフィール
佐藤晋也 (さとうしんや)
青森県立五所川原農林高等学校校長。1954年、五所川原市生まれ。五所川原高校から東京農業大学農学部に進み、果樹の栽培技術を学ぶ。卒業後は青森県内の養護学校の教員を7年間務め、1984年から五所川原農林高校の教諭に。1993年から、弘前大学大学院教育学研究科修士課程学校教育専攻にて高等学校農業教育を研究。1995年に教育の現場に戻り、柏木農業高等学校を経て2010年より現職。2012年、五所川原6次産業化推進協議会を設立し、会長に就任。

農業教育を変えたい。ベンチマーク・ニッポンvol.3 「イノベーターは、校長先生」 第1回


教育を学びに、大学院へ

画像: 教育を学びに、大学院へ

技術を教えるだけではない、新たな高等学校農業教育とは何か。従来の教育方法に行き詰まりを感じていた佐藤氏は、そのヒントを学問の世界に求めた。
「農業教育を研究するために、弘前大学大学院の教育学研究科を受験しました。ところが、面接試験で志望動機を語ったら、"農業教育というジャンルそのものが無い"と面接官の先生方に言われてしまい、途方に暮れました…。その時、"社会学でもよかったら"と手を差し伸べてくれたのが、佐藤三三(さんぞう)先生でした」。
わらにもすがる思いで、佐藤氏は佐藤三三先生の研究室に入った。その専門は、農村社会学。新たな視点を必要としていた佐藤氏にとって、打ってつけの分野だった。
「農村がどうやってつくられてきたのか、農村において学校はどんな役割を担っていたのかなど、文化の視点から農村を掘り下げるのが農村社会学です。例えば、開拓村における学校の役割とは、農作業に忙しい親に代わって、人としてやるべきことを子どもたちに教えることでした。また、農村のコミュニティでは、米俵1俵を1人で担げるようになって初めて、"一人前(ひとりまえ)"の大人として認められていたそうです。そんな話を聴いていくうちに、これまでの高等学校農業教育には、人を育てるという発想が欠けていたんだ、と気が付きました」。
この時の発見が、佐藤氏の教育観を変えた。

新しい農業教育をやる

新たな知見に触れながら、教育を見つめ直していった佐藤氏。2年にわたって研究を続け、新しい高等学校農業教育のあり方にたどり着いた。
「わたしが考えた高等学校農業教育とは、まさに、人をつくる教育です。農業って、そう簡単に事が進まないんですよ。多くの品種は、種をまいて作物が採れるまで、1年かかる。その体験や努力を、長い年月をかけて積み重ねていかなければ、"一人前"にはなれません。しかしそれは、高校の3年間だけでは足りない。ならば、3年間の完結した教育のなかで、農業が好きな生徒をつくる。農業に夢や希望を持てる生徒を育てていく。その中で、もっと勉強したい生徒には、卒業したあとに成人向けの農業教育を受けられるよう、導いてあげる。大切なのは、限られた高校生活のなかで、どうやって"農"に生徒を近づけられるかだと思うんです」。
そもそもジャンル自体が無かった農業教育を、社会学の視点から研究した佐藤氏。確かな手ごたえをつかみ、教育の現場へと戻った。

学校存続の危機

五農に戻って数年後、佐藤氏は、学校の根幹を揺るがす大問題に直面する。
「全国の農業高校を8校に統合すべきだという議論が起こり、五農の存続自体が危機にさらされたんです」。

少子化が問題視され始めた1990年代。大学進学率の上昇にともなって普通科高校へ進学する人の割合が増えた一方で、農業や商業、工業などのいわゆる職業高校への進学は減り続け、その多くが生徒の確保に苦戦していた。なかでも、ただでさえ広い農場を持ち、設備の維持費がかかる農業高校は、他校との統合や総合学科への改組など、学校改編の対象になりやすかった。
「学校が生き残っていくためにわたしが必要だと考えたのは、学校の特長を打ち出し、それを社会に発信していくことでした。ちょうど1999年に、環境三法という法律が制定されました。三法とは、環境に配慮した家畜のし尿処理の方法を規定した"家畜排泄物管理・利用促進法"、有機肥料の使用を認可した"改正肥料取締法"、そして、持続可能な農法の促進をうたった"持続型農業促進法"のことです。―わたしは、環境保全型の農業の時代が必ず来ると確信しました。これからは、"環境"という切り口から人々が農業に入っていく時代になる。そこで出したアイデアが、五農が持つ広大な敷地と豊富な自然を生かして、学校の中にビオトープをつくろうという構想です」。

五農の価値を地域に発信する

画像: 五所川原農林高校構内のビオトープ

五所川原農林高校構内のビオトープ

ビオトープとは、動物や植物が生息できるように造成した、小規模な生物空間のことだ。佐藤氏はこのビオトープと農場とをあわせて"教育ファーム"と名付け、学校の外に五農の価値を発信するしかけをつくった。ビオトープでの自然散策や農場での農業体験といった機会を、地域の人々に提供したのだ。

「その頃、小学校にはゆとり教育が導入されていましたが、その変化に先生たちが対応できていない状況でした。そこで、小学校の先生方を対象に、五農の生徒が講師役となって、教育ファームを使った農業体験学習の研修を行ったんです。これが地域で評判となり、多くの小学校から問い合わせが来ました。さらに、五農が創立百周年を迎えた2002年には、その記念プロジェクトとして、教育ファームで生徒が栽培したコメをゆうパックで販売したり、顧客リストをつくってリンゴを直接売り込んだりしました」。

それまでの農業は、作物の栽培だけに徹していた。しかし佐藤氏は、教育ファームを開放し、作物の販路を独自に確保するなど、五農ならではの取り組みを地域に示した。その結果、五農は廃校の危機をまぬがれ、農業高校としての存続を守ることができた。この時、佐藤氏の立場は一教諭に過ぎなかった。

「当時の校長先生からは"今までどおりやっていればいい"と叱られました(笑) しかし、地域や消費者にもニーズがある。それを掘り起こすのが農業高校の教員の役目であり、そのための教育が必要だとわたしは考えていました。結局はそれを押し通して、自由にやらせてもらいました」。

五農自ら6次産業化のモデルに

その後、佐藤氏はほかの農業高校での勤務を経て、2010年に校長として再び五農に着任。この年、6次産業化法*が制定される。6次産業とは、1990年代の半ばに農業経済学者の今村奈良臣氏が提唱したもので、1次産業(農林漁業)×2次産業(製造・加工)×3次産業(卸・小売・観光)=6次産業と位置づけ、1次産業の従事者による加工や小売への取り組みが、新たな価値の創造や農村の活性化につながるという考え方だ。この法律によって6次産業と認定されたプロジェクトの事業者は、簡単な手続きで農地を加工や販売などの施設に転用できるほか、新品種を開発した際の登録料が減免されるなどの支援を受けられる。偶然、佐藤氏自身もこの6次産業化に近いアイデアを修士論文に書いており、かねてから取り組みの構想を持っていたようだ。
「6次産業化法が制定されたことで、農業の完全自由化が現実的なものになると直感しました。そこでわたしは、加工業や販売業などと協力することで、生産者が自分で決めた価格や販路で農作物を売るための、産業の複合体のような組織をつくろうとしたんです。そのためには、農業高校と同窓会、農家、企業、行政がつながる必要がありました。しかし、そもそも6次産業化のモデルが無かったので、具体的なイメージを彼らに示すことができない。そこで、自分たちでモデルをつくってしまおうと考えました」。
佐藤氏がイメージした、産業の複合体。その原型として五農の内部につくられたのが、"街づくり五農農業会社"だ。

* 正式名称は「地域資源を活用した農林漁業者等による新事業の創出等及び地域の農林水産物の利用促進に関する法律」

生徒が地域と直接つながる

「五農ができることを地域にアピールするのが、街づくり五農農業会社のねらいです。社是までつくって、仮想の会社形態としました。社長がわたしで、社員は先生と生徒たち。農業で世界に勝つための教育を目指して、"起業家精神を持った人間をつくる"ことを目標に掲げました。そのためには、これまでの体験的な学習やインターンシップだけではなく、生徒が地元の消費者と直接コミュニケーションをとれる機会が必要です。そこで、生徒全員が、五農でつくったコメやジャムなどの販売実習を体験できるよう、カリキュラムに組み込みました。これによって、"五農"という教育のブランドをつくりたいという思いもありました」。

画像: 津軽鉄道五所川原駅に設置した売店

津軽鉄道五所川原駅に設置した売店

売店は、地元の津軽鉄道が駅構内の空きスペースを無償で提供。やがて地域のNPOも参加し、学校と企業、そして地域が強く結びつき、五所川原での6次産業化の機運が高まってきた。

画像: 五農生による販売実習

五農生による販売実習

地域の価値をつくる

6次産業化を目指してつくられた街づくり五農農業会社だが、あくまで学校の中の一組織に過ぎず、地域に利益をもたらすには限界があった。五所川原の新しい価値をつくることに特化した組織が必要だった。

「ある市民NPOから"行政ができないことを五農でやってくれないだろうか"という相談を受け、例えば新商品の開発ならできると考えました。一方で、ちょうどその頃、市役所から"市民提案型事業の公募に参加してはどうか"という話が来たんです。調べてみると、学校の外部に別の組織をつくれば、補助金の対象になりうることがわかった。そこで思いついたのが、さまざまな産業の人たちで構成された組織を、五農が中心となってつくることです」。

画像: 五農の伝統行事「田植え祭り」

五農の伝統行事「田植え祭り」

佐藤氏は、持ち前の行動力と熱い語り口で、農業生産者やNPO、行政、そして地元内外の企業など多様な立場の人たちを巻き込んでいった。そして2012年に"五所川原6次産業化推進協議会"を立ち上げ、本格的な6次産業化の取り組みをスタート。めまぐるしい校長の行動に、現場の教員たちも必死に食らいついて行った。佐藤氏は、校長という立場をこう考えている。

「今の複雑な世の中で物事を進めていくのに、トップダウンは必要です。同時に、それをボトムアップする力も要ります。先生と校長は、運命共同体だと思うんです。よく言われる"連携"ではなく、"連結"するぐらいのイメージですね。同じレールに乗ることで、一緒に考えることができる。それをけん引していくのが、トップダウンだと思います。わたしは教員ですが、これからは経営者の感覚も必要です。"こうすればこうなる"ではなく、"これ、やっちゃうから"と宣言してしまう。言ってしまった手前、わたし自身が動かなきゃいけない。一方で、生徒たちに成果が見えてくると、先生たちも一生懸命にやってくれるんです」。

強力なリーダーシップで、6次産業化の本格的な活動を踏み出した佐藤氏、次回では、その取り組みの具体的な内容について話を聞く。


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