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一橋ビジネススクール教授 楠木建氏
高峰秀子を知るための一冊として楠木氏が強くすすめる『高峰秀子の流儀』。そこには人生の原理原則が語られていると言う。

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※本記事は、2022年8月4日時点で書かれた内容となっています。

高峰秀子さんご自身が書いた本は、お亡くなりになった時点で24冊あったのですが、これは24冊“しかない”とも言えます。その後、生前の高峰さんの言葉や未発表の原稿をまとめたものはいくつも出版されていますが、これ以上ご本人の筆による文章を読むことはできません。

ですが、その3でお話しした斎藤明美さんが実にイイ仕事をされています。養女として、高峰さんがお亡くなりになるまで長い間近くにいらっしゃった方なので、ご存命の方々の中で高峰さんのことを一番よく知っていらっしゃる。高峰さんの哲学なり精神なりを今に伝える本をいくつもお書きになっています。その中でも最初に読むべき本としておすすめしたいのが、『高峰秀子の流儀』です。

以前にもお話ししましたが、高峰秀子さんと同時代を生きた方に、時代小説家の池波正太郎さんがいらっしゃいます。この2人はいくつか共通の美点があります。まず、自分の力で生きてきた。自分の足で立って、自分の手を動かして、自分の腕を頼りに独力で名を成した。そして、2人とも自分の日常生活のあり方にすみずみまで自覚的だった。随筆そのものにも、練り上げられた生活ルーティンの美を感じられます。

高峰さんの著作が好きな方は、池波さんの随筆も好きだと思います。僕もその1人なんですが、2人にはハッキリとした違いがあります。池波さんの文章は説明的で、自分の生活様式や生活哲学を開陳するだけではなく、「そういうことはするもんじゃないよ。なぜかと言うと……」と、教え諭すタイプ。一方の高峰さんは言いっ放しで、日常生活の経験に基づいた価値判断やものの考え方をサラッと言うだけ。僕が高校生のときに初めて読んだ高峰さんのエッセイ「黒」もまったく同じ。「あとは推して知るべし」というスタンスです。

高峰さんは物事の本質を実に的確に突いた文章をたくさん書き残しています。そこに彼女を一番よくご存じである斎藤明美さんの解説が加わることで、ますます人生の原理原則がハッキリと見えてきます。『高峰秀子の流儀』は多くの人に読んでほしい一冊です。

軽薄で、冷酷で、打算がすべての映画界において、高峰さんは生きてきました。周りの人たちを極めて怜悧に観察し、自己を客観視し、自分の頭だけで考え、判断し、行動する。この基本動作をひたすら繰り返すことで、自分の価値観を練り上げていった。そういう方が映画界から引退し、いよいよ円熟のときを迎え文章を書くとなると、より内省的な仕事になる。ますますご自身の原理原則が研ぎ澄まされていき、それに対して忠実に日常生活を送っていく。

動じない、求めない、期待しない、振り返らない、迷わない、甘えない、変わらない、こだわらない。「何をしないのか」が非常に明確である。僕はそこに、究極のジリツを感じます。ジリツには2つあって、自分を律する意味での「自律」と、自分で立つという意味での「自立」。人間として一番大切なこの2つのジリツを、高峰さんは見事に両立しています。

高峰さんがお持ちだったさまざまな価値観を僕なりに一言で表すと、「潔さ」。「潔く生きるとはどういうことなのか」という問いに対するほぼ完全な回答が、高峰さんが生涯を懸けて練り上げた生活哲学に含まれています。

それはひたすら高峰さんご自身のためであり、社会のためにもなっている。利他と利己が完全に溶け合った、生活芸術のようなものです。だれもが、仕事をする人である以前に生活者です。高峰さんは生活者として最上の手本と言えます。

司馬遼太郎さんが生前、高峰秀子さんについて「いったいどういう教育を受けたらこのような人間ができるのか」と感嘆したそうですが、高峰さんは徹底的にセルフメイドの人でした。想像を絶する不幸の中で若い頃を過ごし、自分の頭と自分の手だけで生活の哲学を練り上げた。しかも50年以上の長期にわたって第一級の仕事をした。最高度の教養がなければこんなことは達成できません。

セルフメイドの生活哲学者。天才的な人間ではなく、人間の天才。人間生活における天才です。彼女の最高傑作は映画『浮雲』でもなく、著作『わたしの渡世日記』でもなく、高峰秀子という存在そのものだったと僕は思います。

ですが、特異な資質と経歴の人なので、まったく再現性がありません。彼女のような生き方はだれにもできない。井原高忠さんの『元祖テレビ屋大奮戦!』を大学生のときに読んで「こういう人になりたいな、こういうふうに仕事したいな」と思った僕ですが、高峰さんのようになりたいとは思わない。と言うより、無理です。

自己抑制や自己規律が尋常じゃない。それは彼女の非常に厳しい前半生が作ったものなので、他者には近づきえない境地です。それでも僕は、仕事や生活においてことあるごとに「高峰秀子さんならどう考えるかな、どうするかな」と自問自答してから行動に移るようにしています。だいたいのことは、これで間違いない。

最後に、僕が一番好きな高峰秀子さんらしいエピソードを紹介します。生前も各方面から尊敬されていた高峰さんは、同業者である女優にとってはかつての大スターというだけではなく、その生き方全体を含めて憧れの存在でした。あるとき、当時まさに旬にあったスター女優が「とにかく高峰先生を尊敬しています。わたしも先生のようになりたい」とおっしゃったそうです。それに対して高峰さんは一言「ああ、そうかい。50年かかるよ」。

これが高峰秀子の真骨頂です。他人に厳しく、自分に厳しい。自己規律のレベルがとんでもなく高い。片や僕は、他人に甘いですが自分にはもっと甘い。高峰さんとはタイプが全然違います。それでも、「この人だったらどうするだろう」と考えられる存在がいるのは、まったくありがたいことです。

みなさんにとってだれがそういう存在に当たるのか、ちょっと考えてみてください。もし思い当たる方がいないのであれば、どれでもいいので高峰秀子さんの本を読んでみてください。

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画像: 心の師「高峰秀子」の教え―その5
人間の天才。

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。

著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

楠木教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

お申し込みはこちらまで
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ご参加をお待ちしております。

楠木健の頭の中

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楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

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山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

協創の森から

社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。

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パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

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