IoT(Internet of Things)で農作物栽培のあり方を変える、農業IoTソリューション「e-kakashi」(イーカカシ)。これまで結びつくことのなかったITと農業の現場との橋渡し役を担うのが、e-kakashiのセンサーで取得した田畑の環境データをもとに、農業従事者に栽培のアドバイスを提供するアプリケーション「ekレシピ」だ。開発したのは、学生時代に農業センサーネットワークの研究で博士号を取得したPSソリューションズ株式会社の戸上崇氏。ekレシピの独自性と、戸上氏が描く日本の農業の将来像について聞いた。

プロフィール:戸上崇(とがみたかし)
1981年、三重県生まれ。オーストラリアのチャールズ・スチュアート大学にて応用科学(環境科学)の学士号を取得後、三重大学大学院生物資源学研究科に進学。農業センサーネットワークの研究に取り組み、同大学にて博士号(学術)を取得。2013年、ソフトバンクモバイル株式会社(現・ソフトバンク株式会社)に入社。現在、ソフトバンクグループのPSソリューションズ株式会社CPS事業本部グリーンイノベーション研究開発部部長を務める。

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きっかけはエベレストの課題

戸上氏は1981年、三重県伊勢市で生まれた。今でこそe-kakashiプロジェクトのメンバーとして農業支援に携わっているが、実家が農家というわけでもなければ、もともと農業を志していたわけでもない。

「高校卒業後、語学研修のために留学したオーストラリアの大学にそのまま正式入学しました。専攻したのは応用科学(環境科学)といって、地質学や動物生態学、分類学など自然環境に関する分野です。小さい頃から動物が好きだったので、いずれ他大学の獣医学部に編入できたら…と、はじめは考えていました」

しかし、戸上氏が描いていた青写真は、ある講義で課された練習問題をきっかけに大きく変わることになる。

「GIS*やリモートセンシングという技術を学ぶ科目で、“エベレスト登山で実際に使われているルート以外の新しいルートを考えて地図上にマッピングしなさい”という課題が出ました。一日の歩行距離やキャンプの回数、設営可能な場所の制限などいくつか条件があるなかで、地層の成分や土地の傾斜度といった情報をマッピングして分析し、自分なりのルートを探していく。その面白さに魅せられてしまい、応用科学という学問を突き詰めていこうと決めました」

やがて2007年に大学を卒業した戸上氏は、郷里の三重県に戻った。就職という道もあったが、選んだのは大学院への進学。「もう少し専門性を身に着けてから社会に出よう」と考え、地元・三重大学の門を叩いた。その時、知人の紹介で出会ったのが同大学大学院生物資源学研究科の亀岡孝治(かめおか たかはる)教授だ。

「亀岡先生は、農業従事者の高齢化や減少を背景に1996年頃から農林水産省が着手していた、“農業×ICT”をテーマとする研究プロジェクトのメンバーとして、農業の生産性向上などの課題に取り組まれていました。それを聞いて思ったんです。わたしがオーストラリアの大学で学んできたGISやリモートセンシングの技術で貢献できる分野があるんだ、と」

* Geographic Information System:地理情報システム。位置や空間に関する情報を持ったデータをコンピュータの画面上で重ね合わせて視覚的に表示し、高度な分析や迅速な判断を可能にする技術。

「憶えるな。理解しろ」

亀岡教授が当時から取り組んでいる“農業×ICT”とは、今で言う農業IoT。そのなかでも戸上氏は、農業センサーネットワークを研究テーマに選んだ。

「農業センサーネットワークとは、センサーが付いた環境計測機器を田畑に配置し、いろいろなデータを取得する無線ネットワークのことです。そこで収集したデータを活用して、栽培支援や品質の向上、収量の増加にどう役立てるか。それを命題に研究を進めました」

初めは「2年間の修士課程を終えたらと就職」と考えていた戸上氏だが、研究にのめり込み、さらに上の博士課程へと進んだ。

「亀岡先生からずっといただいていた言葉で、わたしにとって座右の銘になっているのが“憶えるな。理解しろ”。専門書の文章をただなぞって記憶するのではなく、その成り立ちや背景を頭の中でイメージすること。それは研究だけでなく仕事の上でも心がけるべきことだと指導していただきました。その哲学と、わたしが大学院に進学するより10年も前から農業IoTに着目されてきた先見の明に、感銘を受けたんです。亀岡先生のもとで、もっと修業して力をつけていきたいと考えました」

画像: 「憶えるな。理解しろ」

農業センサーネットワークの研究をさらに深めていった戸上氏。博士論文の題目は「果樹栽培におけるセンサーネットワークの利活用に関する基礎的研究」だった。

「ミカン園やブドウ園といった実際の果樹園で、環境計測機器をどんな目的で、どう設置し、どんなデータを取得すればよいか。それをどんな形で現場にフィードバックし、農作業をされる方の意思決定に活用すればよいか。植物生理学や園芸学の観点を交えて栽培支援のシステムを設計し、さらに、それをいかに普及させていくかを研究しました」

研究に没頭していたある日、戸上氏は亀岡教授の共同研究先のブドウ園で、現在PSソリューションズ株式会社の農業IoT部門を率いる山口典男氏に声をかけられた。当時、山口氏はソフトバンクモバイル株式会社(現・ソフトバンク株式会社)でe-kakashiの前身となるシステムの開発を手がけていた。

経験不問の農業を可能にする「ekレシピ」

博士課程修了後の進路として戸上氏が選んだのは、その山口氏が勤めるソフトバンクモバイルへの就職だった。なぜ、そのまま大学に残り研究者の道に進まなかったのか。

「大学院での研究の成果を、企業に勤めながら、農業従事者の方々に届けていけるんじゃないか。亀岡先生をはじめとする研究者の方々が育ててきたシーズと、農業の現場のニーズとを、わたしがマッチングできたらすごく面白いんじゃないか。そう考えて、ソフトバンクモバイルへの就職を決めました。

もう1つの理由は、山口をはじめとするe-kakashiプロジェクトメンバーの熱意に惹かれたからです。彼らは“農業情報革命で人々を幸せに”という思いを掲げ、わたしのようなITとは畑違いの視点を持った人間をチームに加えることを真剣に考えていました。そこに魅力を感じ、一緒にe-kakashiを開発したいと考えたんです」

戸上氏は博士号を取得すると、2013年1月にソフトバンクモバイルに入社。すぐにプロジェクトの一員となり、e-kakashiのユーザー向けに栽培のアドバイスを表示するアプリケーションの企画・開発を任された。e-kakashiのセンサーで取得された田畑の環境データはクラウド上で加工・分析され、その結果を、ユーザーである農業従事者や営農指導員がスマートフォンやタブレット、PCで閲覧する。問題は、その画面にどんな情報をどう表示させるかだった。それまでプロジェクトには農学的な視点を持ったメンバーがいなかったため、ITでさまざまなデータを取得できても、それをユーザーが栽培に使える形で提供できていなかった。

「そこで、わたしが特に力を入れて開発したのがアプリケーションの1つ『ekレシピ』です。きっかけとなったのは、栽培の工程を料理のレシピのような形で農業従事者の方にお見せすれば、ある程度簡単に栽培ができるのではという山口の発想でした。しかし、農業の現場では、栽培工程以外にも気を付けなければならないことがあります。例えばイチゴひとつとっても、品種によってタネを蒔くタイミング、収穫するタイミングが異なりますし、適切な温度や湿度も違う。環境データを実際の栽培に活用するには、そういった品種ごとの留意点を体系的にまとめて表示する必要がありました。

一方で、わたしの頭にあったのが、恩師である亀岡先生が提唱されていた『e-栽培暦(イーさいばいごよみ)』でした。これは、すでにある栽培暦と科学的根拠を融合させた電子版のカレンダーのようなモノです。山口の構想とこのe-栽培暦を組み合わせれば、農業をされている方にとってわかりやすいアドバイスを提供できるのではないかと考え、半年がかりでekレシピを開発しました」

気温や湿度、土壌の水分量などといった植物が実際に置かれている環境のデータを、生育条件として理想とされる数値と比較する。もしそこに乖離があれば、あらかじめレシピ内に設定しておいた、その状況に合わせた対処法(これまで培われてきた農業の経験と勘に基づく作業内容)を打つべき対応策として農業従事者に伝える。つまり、計測データ、科学的根拠、そして農業の経験と勘を融合させたアドバイスを送る。それがekレシピの役割だ。栽培の経験や勘がないために定着が難しかった新規就農者にとって、これが大きな手助けになると戸上氏は断言する。

画像: ekレシピのポータル画面例

ekレシピのポータル画面例

「例えばコメ栽培の場合、浸種(しんしゅ)や播種(はしゅ)*、育苗といった生育ステージによって、モニタリングすべき環境の項目や農業従事者がやるべき作業は異なります。今まではそこを経験と勘で補ってきましたが、“気温が何度を超えたから、植物にこんな障害が起こりうる。だからこう対処してください”というアラートをekレシピで出せれば、初めて農業をする人たちの助けになりますよね。将来の担い手となる農業従事者を育成するとともに、高品質な農業の継続を支援するツールとして、かなりの効果を発揮するだろうと自負しています」

* 浸種:発芽を促すために種子を水に浸すこと。 播種:種子をまくこと。

画像: 戸上氏が企画・開発したアプリケーション。センサーで取得した環境情報や田畑全体の状況をひと目で把握できるよう設計されている。

戸上氏が企画・開発したアプリケーション。センサーで取得した環境情報や田畑全体の状況をひと目で把握できるよう設計されている。

日本を農業技術大国に

e-kakashiが商用化を迎えた2015年10月以降、戸上氏は全国を飛び回っている。ekレシピのさらなる改善に向け、e-kakashiを実際に利用している農業従事者の生の声を聞くためだ。

「e-kakashiの開発はまだまだ途中段階です。われわれのゴールはIoTではありません。モノがインターネットにつながるだけでは、栽培に活かすことはできない。目指しているのは農業CPS(Cyber-Physical System)。田畑で取ったデータに、農学などの科学的な知見、そして農家の方々の経験と勘を加え、解析して農業の現場にフィードバックしていく。ekレシピに関しては、その大きなフレームワークがようやく出来上がった段階です。

われわれはe-kakashiを農業のプラットフォームに育てていきたいと考えています。インターネットの世界でいうWi-Fi対応のような感覚で“これ、e-kakashi対応してる?”といった会話が当たり前になる世界をつくっていきたい。現状では、田畑の土壌や大気のデータを取得・分析することで植物の状態を予測しているとも考えられますが、理想としては、植物一株ずつを直接測ってその状態を理解できるようなセンサーにも対応したい。将来的には、e-kakashiを植物と人間との対話を仲介するツールにしたいと考えています」

さらに戸上氏は、e-kakashiが栽培のあり方を変えることで、農業のしくみ自体も大きく変えられると考えている。

「農業の生産は、ずっとプロダクトアウトの発想で行われてきました。例えばトマト。糖度の高い品種が登場してたくさん売れ出したことで、他の生産者の皆さんも糖度の高い品種を生産するようになりました。その結果、スーパーのトマト売り場には甘い品種が並ぶようになり、やがて価格競争へと移っていきました。そうなってしまうと、農家さんはなかなか儲からない。これが今の日本の農業の実態です。

一方で、外食産業に着目してみましょう。例えば大手牛丼チェーンのみなさんは、コメはどのくらいのパラパラ感が必要だとか、甘味はこれくらいじゃなきゃいけないといった基準を持っています。農家さんがekレシピを使い続けることで作物の品質や収量を高めることができれば、牛丼チェーンのニーズに対応したコメの生産が可能になる。そういったマーケットニーズに基づく栽培、すなわちマーケットイン型の農業を可能にし、農家さんがもっと儲かるしくみを作っていければと考えています」

もう1つ、戸上氏が着目するのは、日本の農業が培ってきた高度な技術。e-kakashiの普及の先に、世界に冠たる日本の農業の将来像を描いている。

「今スーパーで普通に売られている日本産の野菜や果物のなかで、日本原産の品種って実はほとんどない。例えばバレンシアオレンジ、リンゴ、キャベツ、温州ミカン。これらは過去に外国からタネや苗木を持ってきて育てたのが始まりです。日本はもともと、それらの栽培に適した土地であるとは考えにくいんです。しかし、品種改良を重ねて栽培技術を高めることで、おいしい作物を生産できるようになりました。

海外では水不足や食料不足による飢餓などが深刻な問題になっています。そういった国の農業従事者の方にe-kakashiを使ってもらえれば、日本が培ってきた栽培の技術によって食料を安定生産できる可能性もあると思うんです。このように国内の技術を利用して海外の現地で生産する考えを、“MADE BY JAPAN”と呼んでいます。MADE BY JAPANによる世界の食料問題の解決への貢献。そこにe-kakashiで関わっていきたいです」

画像: 日本を農業技術大国に

第4回では、PSソリューションズ株式会社の坂井洋平氏と小杉康高氏に、e-kakashiのビジネス展開について話を聞く。


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