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一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授 楠木建氏
「ゆっくり」という仕事の時間軸を持つことの意味、そして人生における本当に大切な資産についての楠木教授の考察。第4回は、経済コラムニスト 大江英樹さんが教えてくれた、人生でいちばん大切な資産とは。

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「第4回:記憶資産」

※本記事は、2024年8月1日時点で書かれた内容となっています。

僕が今年ショックだったのは、経済コラムニストの大江英樹さんが元日に亡くなられたことです。まだ71歳でした。ご夫婦で僕が所属するバンド“Bluedogs”のライブを見にきてくださったことがきっかけで、2~3年前から一緒にライブに出かけるといったお付き合いをさせていただいていました。年上の方に対して失礼かもしれませんが、非常にチャーミングな方でした。

大江さんは定年まで証券会社にお勤めになって、60歳を過ぎてから経済コラムニストを始めます。もちろんスタートした時、大江英樹という存在は知られていませんから、最初の著書は自費出版で作られたそうです。そこから小さなセミナーや講演会を重ねて徐々に読者を増やしていった。僕がお会いした頃は、よく知られた経済コラムニストで本もたくさん出されていました。その1でお話ししたように、複利がゆっくりと増えていくことで成果を出された手本のような方でした。

2023年に出版された『90歳までに使い切る お金の賢い減らし方』という本は、僕も書評を書きました。この本で大江さんは、お金は貯めるもの、増やすものだと考える人は多いが、それは呪縛である。お金というのは、自分にとって価値あるものを手に入れる手段でしかないのだから、私たちは積極的にお金の使い方、減らし方を考えるべきだと書かれています。

これはご病気になる前に出された本なのですが、ここで強調されているのは、人は死を意識した時にはじめて人生で本当に大切なものに気づくということです。では、死から逆算した本当に大切なものとは何か。それは「記憶」である、というのが大江さんの結論です。僕がお別れの会で見せていただいた未完成の遺稿にも、「結局、人生の最後に残るのはお金ではなく、思い出しかないんだな」と書かれていました。

日本人の多くは、死ぬときに一番多くお金を持っているそうです。もちろん理由はあるのですが、それはあまりにもったいない。自分をごまかさずに、自分にとって意味のあるお金の使い方で豊かな記憶を積み重ねた方が、人生はずっと楽しくなるというのがこの本の主張です。

おそらく大江さんご自身が、豊かな記憶を積み重ねた人なのだと思います。しかも、大江さんは周囲の人にも非常に豊かな記憶を与えた人でした。僕も、話されたことやその時の表情を、今でも断片的に思い出します。これからも多くの人の記憶の中で、大江さんは生き続けていく。僕は、これが人間にとって最大の達成だと思います。

僕は大江さんよりも10歳以上若いのですが、人間にとって最大にして最高の資産は記憶であることは、もう確信しています。かなり以前にこの連載でも微分か積分かという話をしましたが、間近な達成や評価という微分よりも、過去からの累積による積分の方が僕にとっては重要です。その時積分するものは何かといえば、それは記憶だと思います。お金というのは、記憶資産を手に入れて少しずつ積み重ねていくための手段です。

しかし記憶というのは事後的なものなので、何が記憶資産として残るのかを事前に知ることはできません。これがまた記憶の面白いところです。例えば僕が30歳前後の駆け出しの頃、日立製作所の戸塚にある研修所で経営の講義をする仕事がありました。相手は40歳前後の男性エンジニア、全員年上のおじさんです。戸塚はクルマだと結構遠くて、踏切はなかなか開かないし、決しておいしいギャラではない上に契約期間も長い。なんでこの仕事を引き受けたのか、毎回自問自答していました。

ところが今振り返ってみると、僕よりも年長のエンジニアに、経営というものを理解してもらおうと若僧なりに一生懸命知恵を絞ったこの仕事が、その後の自分を形成するためにとても重要な経験になった実感があるのです。同じ時期に学会で発表したり、学術雑誌に採択された学者としての成果よりも、戸塚の研修所での日々は貴重な記憶資産になっている。わからないものです。

先日横浜ベイホテル東急に仕事で出かけてきました。そのホテルの横に、小さな遊園地があります。娘が小さい頃、この遊園地が好きで何度か連れて行き、ホテルに泊まったこともありました。あの景色を見ると、そんな記憶が一気によみがえってきてグッときました。横浜は僕の青春の街なので、それをきっかけに若い頃の記憶が芋づる式に思い出されてきて、これが本当の豊かさだと感じました。

今多くの方がスマホで写真を撮りますが、あれは後でいつ誰とどこへ行ったということを振り返る時に便利です。記憶資産の管理方法として優れていると思いますが、僕がおすすめしたいのは「日記」です。断片的な記録や、事実の羅列だけでもいいので、書く習慣をつけておく。見かえした時に、雪ダルマ式に複利のついた豊かな記憶資産がよみがえります。

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画像: 仕事の時間軸―その4
記憶資産

楠木 建
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。

著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。

楠木特任教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/

ご参加をお待ちしております。

楠木健の頭の中

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