「第1回:『限りある時間の使い方』『簡素な生き方」はこちら>
「第2回:『訂正する力』『不思議な宮さま』」はこちら>
「第3回:『方丈記』『資本主義の中心で、資本主義を変える』」はこちら>
「第4回:『引越貧乏』『宿六・色川武大』」
※ 本記事は、2024年6月10日時点で書かれた内容となっています。
最後は僕の大好きな人物についての二冊です。色川武大さんは僕の大好物の作家です。人間洞察において格別の深みと切れがある。彼の作品は、音楽で言うとブルースを聴いているようなたまらない味わいがある。『引越貧乏』は色川さんの最後の短編小説集です。
1929年生まれの色川さんは、16歳で迎えた敗戦の時に学校を無期停学処分になっていて、進級も転校もできずに中学校を中退しています。そこから担ぎ屋とか闇屋とか立ち売りとかばくち打ちといったアウトローの生活に入っていく。この時代の経験が、阿佐田哲也名義で出したギャンブル小説となって大ヒットします。『麻雀放浪記』『雀鬼五十番勝負』『ドサ健ばくち地獄』『東一局五十二本場』、僕は大学生の時にどっぷりハマりました。
若き日の色川武大さんは『麻雀放浪記』の主人公さながらのばくち修業生活を送りました。さいころ賭博やマージャンの腕を磨き、稼いだ時にはいい宿に泊まって文無しの時は野宿。そんな生活の中で、ずっと人間や人間社会を凝視することで特異な人生哲学の基盤を作ったのだと思います。
この『引越貧乏』という短編小説集は、著者が50歳を機に書いた連続ものの私小説です。今の僕より10歳も若い頃の作品であることに驚きます。著者ならではの鋭い人間洞察が、もう深くてたまらない。なぜここまで深く人間を理解できるのか、この本を読んでようやくわかりました。色川武大はとにかく自分という人間に興味があったのです。
この短編集にある「五十歳記念」という作品で、彼は自分のことをしっかりと洞察している部分があります。自分は一種のナルシストで、決して自己のバランスを壊そうとはしない。他のことは破れかぶれで全く平気なのだが、内心のバランスだけは必死で守る。ずっと外れ者だった人間は劣等感にさいなまれるが、動物の本能で何とか楽しく生きていくために、劣等感を含む自分自身をかわいがるようになる。群れから離れて一匹狼になると、自分を否定していては辛すぎて生きていけない。外れ者ほど自己愛が深くなる。
内心の領域ではずっと独りぼっちで、自分の膝小僧を抱くようにして過ごしてきたので、自分との関係は恐ろしく深くなる。色川武大さんの人間理解は、何よりも自分という人間を洞察し続けた結果として身に付いたものなのだと気づかされました。色川さんとは比べものになりませんが、外れ者としての自覚を持って生きてきた僕は、この部分にグッときました。
僕がよくやるのが「裏を取る」ための読書です。違う視点からの色川武大も読んでみたい。ということで見つけたのが、夫人の色川孝子さんが書いた『宿六・色川武大』。色川武大が60歳でお亡くなりになった後で、夫との生活を振り返ったエッセイです。
孝子さんは色川武大より15歳下。彼とはいとこ同氏の関係にあります。彼女にとって色川武大は親戚の変人のお兄さんで、親戚の中でもとにかくあの人はどうしようもない人だということが共通認識になっていました。知り合った時には、すでに太って薄毛で、ナルコレプシーという突然眠ってしまう難病を患っている。孝子さんは15歳下でまだ若い美しい女性で、しかもいとこですから、結婚相手としては大問題です。それでも孝子さんは「この男はあと2~3年しか生きられないだろうから、それまでの間そばにいてあげないといけない」と思い、はじめて見る珍しい動物に吸い寄せられるように生活を共にします。
「俺は40年間女と暮らそうと思ったことはないが、どうかね」と言われて一緒に暮らしはじめる。色川武大の生活は実際に異様なものでした。よく分からない人が始終家に出入りしたり泊まったりしている。ナルコレプシーの症状として常時空腹感を抱えているので、1日に食事を6回作らないといけない。引っ越しマニアで、20年間に10回引っ越しをする。阿佐田哲也の作品が当たってかなりの収入があるのに、お金はギャンブルと人の世話に使ってしまう。振り回される生活に嫌気が差して、自殺未遂にまで追い詰められるのですが、それでも色川武大のところに必ず戻っていく。逆説的に色川武大の人間的な魅力がよく分かります。
武大も孝子さんに執着していました。病気の俺とずっと一緒ではかわいそうなので、いい男がいたら協力するから結婚しろ、と言うのですが、「君たち夫婦がマンションに住んだら、その隣の部屋に俺は引っ越す。君は小説書きの俺にとっては最高のモデルであり、必要な存在なんだ」。
しかし結局お金が底を突いて、生活費が安い岩手県の一関市に引っ越すことになります。爆発的な才能で文学賞を総なめにした武大は、この頃には純文学一本でいくと決意しています。賞をもらうたびに箔は付くが、いいかげんな仕事ができずお金が入ってこない。あと1本の長編で終わるつもりだと言っているうちに、亡くなってしまいます。
武大がいよいよ死に向かっていくその時になって、著者は思い知ります。「ようやくいとこの武ちゃんではなく一心同体の夫婦になったみたい」――この言葉には、胸を打たれました。通常の夫婦関係とまったく違う、全部が逆回しに動いているような二人の関係こそ究極の夫婦愛かもしれない。そう思わされた一冊でした。
「第1回:『限りある時間の使い方』『簡素な生き方」はこちら>
「第2回:『訂正する力』『不思議な宮さま』」はこちら>
「第3回:『方丈記』『資本主義の中心で、資本主義を変える』」はこちら>
「第4回:『引越貧乏』『宿六・色川武大』」
(撮影協力:軽井沢コモングラウンズ 軽井沢書店 中軽井沢店)
『楠木建のEFOビジネスレビュー』特設コーナーのお知らせ
取材にご協力いただいた軽井沢コモングラウンズ 軽井沢書店 中軽井沢店に、今回の記事でお薦めしている書籍や楠木教授の書籍を取り揃えた特設コーナーを設置していただきました。軽井沢にお出かけの際には、ぜひお立ち寄りください。
(コーナー設置期間:~2024年9月1日まで)
Karuizawa Commongrounds
〒389-0111
長野県北佐久郡軽井沢町長倉 鳥井原1690-1
お問い合わせ:0267-46-8590
楠木 建(くすのき けん)
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。
著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。
楠木特任教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける
「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。
お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/
ご参加をお待ちしております。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
岩倉使節団が遺したもの—日本近代化への懸け橋
明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。