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「第5回:多くの人生に触れることで養われる美意識」
母から受けた「教育しない教育」
山口
今、世の中を見ていると「コモンセンス」というものが失われつつあるように感じます。一方で最相さんは、人生案内の回答などを拝読していると、コモンセンスをしっかり持っておられると感じるのですが、ご自身ではそれをどうやって身につけたと思われますか。
最相
山口さんがおっしゃる「コモンセンス」ってどういう意味でしょうか。
山口
なかなか一言で表現するのは難しいのですが、常識、というよりもリベラルアーツと結びついた「良識」、あるいは「美意識」と言ったほうが近いかもしれません。
最相
答えになるかどうかわかりませんけれど、さきほど申し上げた、「私」なんて「何者でもない」という意識は大切だと思っています。それがなければ人の話をまっさらな心で聴くことはできませんから。今の社会はとにかく情報だらけで、自分がすべてを知っているかのような万能感を感じてしまいがちです。けれど実際には、自分の頭の中にある知識だと思っていたことが、ネットワークやコンピュータの中にある情報にすぎないことも多い。本当の意味で頭の中に入れるためには、やはり生身の人間に、それは故人も含めてですが、できるだけ多く触れて、ネット検索ではなく実体験と結びついた情報を自分の中に取り込むことが必要です。人としての豊かさは、どれだけ多くの人の人生を自分の中に持てるかにかかっています。そのことが、おそらく、山口さんがおっしゃるような「コモンセンス」に結びつくのではないでしょうか。
私の場合、母が比較的若い頃に脳出血を引き金とする若年性認知症になりまして、30年ほど、介護していたんです。本来は自分を守ってくれるはずの存在である親が、若くして衰えていき、それによって私は留学や大学院進学といった希望を諦めざるを得なくなりました。「私はどうして親のせいでこんな制限を受けなきゃいけないの」って腹が立った時期も、もちろんありましたけれど、その環境でよりよく生きていくには、目の前にいる人たちの話を真摯に聴くことが大切だと気づいたんです。
母の介護では、関係する方々とのコミュニケーションを通じて、介護や看取りという人の生死にかかわる究極的な世界には多くの知恵があること、また寛容、優しさ、差別、憎しみといったさまざまな感情が渦巻いていることを知りました。それは「教育しない教育」とでも言いましょうか、学校や企業の研修プログラムでは学べないような教育を母親から受けたと思っています。もしかすると、その介護の経験が今の私をつくっている大きな要素になったのかもしれません。
じゃあ、介護を経験しない人はコモンセンスを培うことができないのか、と言われるかもしれませんが、そうではなくて、誰しも打ちのめされる経験というものがきっとあるはずです。その中で気づきを得られるかどうか、どんな状況にあっても、この出来事にはきっと意味があるんだと意識しながら生きられるかどうかが大切なんだと思います。
たくさんの人生を体験できるおもしろさ
山口
人生相談がお好きだというのも、「どれだけ多くの人の人生を自分の中に持てるか」ということにかかわっているからでしょうね。現代というのは何事も選択肢が多すぎて判断が難しい時代だと思うのですが、最相さんの姿勢は正しい判断を下すための大切な指針になると思います。
最相
そうなると嬉しいですけれど。私は、小中学生を対象としたノンフィクション文学賞に立ち上げからかかわって選考委員を務めています。一つは北九州市が主催する「子どもノンフィクション文学賞」で、そこでは子どもたちにこんなことを話しています。「あなただけが書いた、誰も知らない新しい事実が必ず一つあるということがノンフィクションのすばらしさです。例えば、最近では戦争を体験された方が減っていて、皆さんのひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんがきっと最後の世代になるでしょう。皆さん一人ひとりが戦争体験を聞き取って記録しておけば、100年後にはものすごく大きな財産になります。そういうつもりで取材をしてね」と。
そうしたら、あるとき小学校6年生の子が言ってくれたんです。「たくさんの人に話を聞くと、疑似体験だけれど、たくさんの人生を体験することができます。それはすごくおもしろいことですね」って。
山口
きっと取材しながらワクワクしたんでしょうね。
最相
小学生でよくそこに気づいたものだと感心しました。
もう一つは兵庫県明石市のおさかな普及協議会が主催する「こども海の文学賞」です。2022年に創設されたばかりなのですが、「海って生命の進化や宇宙の謎にも関係していて、明石の海だけじゃなくていろいろなところに海のテーマがある。だから海について調べることは冒険なんだよ」という話をしたら、子どもたちは目を輝かせてくれました。
周りの大人がちょっとヒントをあげるだけで、子どもたちは「知ることのおもしろさ」に気がつきます。それがゆくゆくはその人自身の生きていく力となって、「コモンセンス」と言われるようなものを形づくっていくのではないでしょうか。だから教育の現場でもそういうことを大切にしてほしいと思いますね。
山口
人の話を丁寧に聴くことで、自分の中に価値判断の基準を持てるようになる。そうなると強いですよね。
最相
強いです。今はAIで文字起こしなんかも簡単にできる時代ですけれど、取材の音声を文字にしていくという作業を、私はすごく大事だと考えています。自分の中でやりとりを聞き直して、それを文字にしていくことで、人の話や自分の問いかけが脳に刻印されます。打ち出した文字を読むことによって、それがさらに深く刻まれます。最近よく、面倒な仕事はAIに任せて人間はほかのことに脳を使えばいいと言われますよね。確かにそうした利点はありますが、同時にそれは大切なものを捨てることにもつながりかねないと思うんです。
山口
言葉の重みがなくなりつつある時代だからこそ、人の言葉を自分の中に畳み込んでいくことが大切ですよね。今日は多くを学ばせていただきました。ありがとうございました。
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最相 葉月(さいしょう はづき)
1963年東京都生まれ、神戸育ち。関西学院大学法学部卒業。大手広告会社、PR誌編集事務所などを経てノンフィクションライターとして科学技術と人間の関係性、スポーツ、精神医療などをテーマに執筆活動を展開。著書に『絶対音感』(新潮文庫)(小学館ノンフィクション大賞)、『青いバラ』(岩波現代文庫)、『東京大学応援部物語』(新潮文庫)、『ビヨンド・エジソン』(ポプラ文庫)、『最相葉月 仕事の手帳』(日本経済新聞出版)、『ナグネ――中国朝鮮族の友と日本』(岩波新書)、『辛口サイショーの人生案内DX』(ミシマ社)など多数。『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)にて第34回大佛次郎賞、第29回講談社ノンフィクション賞、第28回日本SF大賞、第61回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、第39回星雲賞(ノンフィクション部門)を受賞。近著に『証し 日本のキリスト者』(KADOKAWA)。
山口 周(やまぐち しゅう)
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。
著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)他多数。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。
シリーズ紹介
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一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
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社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
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