「第1回:今だからこそ必要なネガティブケイパビリティ」
「第2回:仮想空間は断絶を拡大する危険をはらむ」はこちら>
「第3回:あらためて教養とは」はこちら>
「第4回:リベラルアーツと教養の違い」はこちら>
コロナ禍をターニングポイントに
山口
村上先生、本日はオンライン対談となりましたが、よろしくお願いいたします。後ろに見えるのはグランドピアノですね。
村上
ええ、ここは自宅につくった音楽室です。私はチェロを演奏しますので。
山口
それはうらやましいかぎりです。私も音楽が、特にバッハが好きで書斎に電子ピアノを置いて弾いています。いつか音楽についてのお話もお聞かせください。
本日はまず、なかなか出口の見えないコロナ禍について伺います。先生の1983年の著作『ペスト大流行』が昨年5月に緊急復刊され話題となりましたね。未知の感染症に対する不安が過去に学ぼうという機運を高めたのだと思われますが、今のこの状況についてはどうご覧になっていますか。
村上
新型コロナウイルスの累計感染者数は全世界で2億人を超え、死者数は450万人を超えました(9月1日時点)。ただ、1918~1920年に大流行したスペイン風邪では全世界で5,000万人以上が死亡したとされていますから、少なくとも今のところはそこまで酷い状況ではないと言えます。最近では「災害級」という言い方もされますけれど、災害というのは、むろん被災された方々にとっては重大なことではあるものの、世界全体から見れば局所的な出来事になります。一方でパンデミックは、その語源であるギリシャ語のpandemos、pan=すべて+demos=人々という意味のとおり、地域差はあるにせよ日本中、世界中の人々が一様に命の危険に晒されています。これは戦争に近い非常事態であると言えるのではないでしょうか。
山口
戦争状態であるとすると、第一次・第二次世界大戦のように、世界のありようを大きく変えるきっかけとなる可能性もありますね。
先生は『ペスト大流行』の中で、14世紀のヨーロッパで起きたペストのパンデミックによる人口減がさまざまな社会制度の変化をもたらし、中世を終焉に導く大きな力の一つになったと考察されています。具体的には荘園制度が瓦解し、賃金労働者が必要になったことが資本主義の誕生、都市の出現につながったわけですね。
現代に目を転ずると、ここ数十年間に世界中で進んできた都市化、都市への人口集中という大きな流れに、パンデミックによる変化の兆しが見えています。また、気候変動や格差などの問題にパンデミックが加わったことで、経済成長のみを重視する価値観や資本主義のあり方への疑問も高まっています。感染症をきっかけに生み出された社会や経済のシステムが、感染症をきっかけに衰退していくことになれば、皮肉なめぐり合わせであると感じます。
村上
都市の問題について言えば、日本では総人口が減少局面に入った中でも、東京都の人口は依然として増え続けていました。それが2020年7月からは転出超過が続き、2021年もその傾向が続いているようです。特に23区は今年に入って総人口が減少しています。
フランス語に「Métro, boulot, métro dodo」という言い回しがありますね。郊外から満員のMétro(地下鉄)で通勤して、boulot(仕事)で疲れて、またメトロで帰ってdodo(ねんね)するだけのつまらない生活といった意味です。東京も同様の状況であったのが、リモートワークなどの働き方の変化に伴って変わりつつあるようです。これは、コロナ禍が一極集中という状況に対する大きな転機、いい意味でのターニングポイントとなる可能性を示しているのかもしれません。
立ち止まって考える時間を持つ
山口
先生のおっしゃるターニングポイントが重要だと思います。近代社会では時間がお金に換算されるようになり、立ち止まって考える余裕がなくなっています。今、コロナ禍によって立ち止まらざるを得ない状況になってしまったことを、来し方行く末を考える機会として生かすべきだろうと思います。
村上
今、山口さんはとても大事なことをおっしゃいました。少し前に精神科医でもある小説家の帚木蓬生さんの『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』という本が話題となりましたが、帚木さんはネガティブケイパビリティという概念をイギリスの詩人、ジョン・キーツから学ばれたそうです。近代社会では、何か問題が起きたときにはできるだけ早く情報を集め、最善の対応策を果断に実行することが、特に為政者やリーダーの能力として求められてきました。
山口
ポジティブケイパビリティですね。
村上
そうです。それに対するアンチテーゼがネガティブケイパビリティです。一度決断しても、「それが最善なのか」と一瞬でもいいから立ち止まって、別の角度から見直してみる「余裕」を持てる能力ということです。立ち止まって考える時間を持つことは近代社会では勇気が要るものです。コロナ禍を、その自発的な勇気を誘い出す外からのインパクトとして捉えてはどうかと思うのです。
山口
ネガティブケイパビリティとは「拙速に事実や理由を求めず、不確実さ、不可解さ、疑惑ある状態の中に人がいられる能力である」というふうに、ジョン・キーツは言っていますね。まさに「答えの出ない事態に耐える力」ということです。
物事の原因を早く明らかにして結果を出すということは還元主義的で、一見すると科学的にも思えるわけですが、COVID-19の問題に象徴されるように、さまざまなシステムが複雑化して因果関係の整理がしづらい今日の社会では、拙速に原因を求め、急いで対処することが正しいとは言い切れないでしょう。
また、イギリスの軍事学者、ベイジル・リデルハートは、外交の要諦は「宙ぶらりんの状態に耐えること」 という意味合いの言葉を残しました。どっちつかずの状態というのは耐えがたいもので、すぐに白黒をつけたがる人が多いのですが、それこそが亡国を招くということですね。
今、立ち止まらざるを得ないという状況は、ある意味では私たちにネガティブケイパビリティ、考える余裕を与えてくれているのかもしれません。
村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)
科学史家、科学哲学者。1936年生まれ。東京大学教授、同大学先端科学技術研究センター教授・センター長、国際基督教大学教授、東京理科大学大学院教授、東洋英和女学院大学学長などを歴任。2018年より豊田工業大学次世代文明センター長。
著書に『ペスト大流行』(岩波新書)『安全学』、『文明のなかの科学』、『生と死への眼差し』(青土社)、『科学者とは何か』(新潮選書)、『安全と安心の科学』(集英社新書)、『死ねない時代の哲学』(文春新書)、『日本近代科学史』(講談社学術文庫)他多数。編書に『コロナ後の世界を生きる』(岩波新書)他。
山口 周(やまぐち・しゅう)
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。
著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)など。最新著は『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
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明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。