技術者としてできることを、もっと拡げたい
鳥越収氏が株式会社日立製作所に入社したのは、2004年。情報・通信システム社の小田原事業所に技術職として配属され、以後、一貫して大型ストレージの設計を担ってきた。ストレージとは、コンピュータのデータを保存するシステムのことだ。鳥越氏が扱う大型ストレージは、金融機関や小売業などの日々のサービスを支える重要なITインフラだ。
「ストレージは企業のデータセンターに置かれるものなので、一般の人の目に触れることはありません。しかし、銀行のATMやコンビニの発注システムなどとネットワークでつながっているので、絶対に止まってはいけない。配属された頃に上司から"事故が事件になってしまうくらい重要な仕事だ"と聞かされ、俄然、ストレージの設計という仕事へのモチベーションが湧きました」
配属されてからの数年間は、新たな知識を吸収し、がむしゃらに突き進んだ鳥越氏。やがて、チームリーダーを任される立場になると、ある悩みにぶつかった。
「何か閉塞感のようなものを感じるようになりました。ひと通り技術を身につけたことで、その先も生きていくことはできるだろう。でも、このままでいいのか。もっと、技術者として自分ができることを拡げていきたい。そのために、何か新しい価値観を自分の中に取り込みたいと考え始めました」
自分を変えるために、取り組むべきことは何なのか。模索を重ね、悶々とした日々を送っていた鳥越氏。そこに、留職の話が舞い込んできた。
「当時の部長に急に呼ばれて、"留職という研修プログラムを初めて導入することになったんだが、行ってみないか"と言われたんです。もともと海外には興味を持っていましたし、新興国の人たちと一緒に暮らし、同じ物を見ることができる…そこに、たまらなく魅力を感じましたね。きっと、今までしたことのない経験ができるのではないか。こんないい機会はないと思い、二つ返事で承諾しました」
そして2013年3月初旬、鳥越氏は日立の留職第1期生の一人として、6週間のプログラムに参加した。当時、入社9年目。33歳だった。
ひたすら技術的な疑問をぶつけ続けた
鳥越氏の留職先は、インドの首都、ニューデリーから南西約260㎞に位置するジャイプールという都市。さらに、その中心街から路線バスで約50分の郊外にある、クーカスという地区だった。そこで活動する教育NGOに、鳥越氏は参加した。
インドの人口の実に7割は、農村地帯に暮らす人々。しかし、教育水準が低いことが問題だった。農村地帯にも公立の小学校はあるものの、出席状況は家庭によってまちまち。なぜなら、子どもを持つ貧困層の親世代が学校教育を受けていないため、そもそも教育の価値が理解されていないからだ。教育を地域に継続的に根付かせるために、地域住民と資金を出し合って学校をつくり、さらに、そこで教える教師を育成する。それが、そのNGOの活動だった。
彼らが鳥越氏に依頼したのは、教師が生徒一人ひとりにつけている成績表を一括管理でき、さらにレポート化できるシステムの作成。NGOには、資金を寄付してくれている国際団体に対し、教育の取り組み状況を報告する義務があった。
現地に入って早々、NGOからオリエンテーションを受けた鳥越氏。最初に出たのは次の一言だった。
「で、どういうのを作ればいいの?」
システムが使われる状況や目的を無視し、とにかく技術者目線の質問にばかり終始してしまったと、鳥越氏は振り返る。
「"こうすればいいでしょ?""なんでできないの?"そんなことばかり訊いていました。職場で同僚と議論するときと、まったく同じ感覚で質問していたんです。そうすれば自ずと課題の原因が見えてくると信じていたから…。日本とインドの環境の違いにも気付かず、ユーザー目線も欠けていました」
しかし、実際に教育の現場を目の当たりにすることで、鳥越氏は自らのスタンスの間違いに気づくことになる。
相手を知り、自分ができることを示す
現地に入って3日目。鳥越氏はNGOに連れられ、彼らが運営する小学校を見学した。そこで見たのは、何十人もの生徒に対し、およそ日本ではありえない、きめ細かな授業を行う教師の姿だった。
「クラス内を学力別にグループ分けして、それぞれに適した内容を一人の先生が教えていました。そして授業の後には、生徒一人ひとりについて詳細な成績表を作成し、次の授業で何を教えるべきかを一人ひとりについて考える。そして、それを毎日NGOに報告しなきゃいけない。まったく想像もしなかった激務ぶりでした」
そこから、鳥越氏はスタンスを変えた。まずシステムを試作すると、NGOに頼み込んで2週目から授業の現場をつぶさに見てまわり、自ら教師のもとに行って話をした。
「技術者としてのプライドを、一度捨てました。自分にはこんなスキルがあって、課題解決のために何ができるかを、自分から現地の人々に伝えなきゃいけないと思ったんです。そのためには、教育の現場にいる先生方が何に困っているのかを知る必要がありました。そうすると、先生たちのITスキルがとても限定的だということもわかってきた。そんなことも知らないで、システムを作ろうとしていた自分に気がつきました」
一方、そこで活かされたのは、それまで技術者として日立で培ってきた仕事のやり方だった。
「物を見せて議論するという姿勢です。授業の準備時間にノートPCを持って行って、先生方にシステムの試作版を見せました。視覚的にわかるよう、成績の入力フォーマットや結果を示すグラフの例を見せて説明して、意見を求めました」
日本で身に付けたスキルを応用し、意欲的に現地の人々に働きかけていった鳥越氏。実は、技術的な貢献以外にも、現地でやってみたいことがあった。
「せっかく教育団体に参加するので、子どもたちに何か新しい価値を提供したいと考えていました。それが、日本の文化である折り紙を伝えること。事前に妻からいろいろな折り方を教えてもらっていました」
仕事の傍ら、放課後の広場でせっせと折り紙を折り始めた鳥越氏。徐々に生徒たちが興味を示し、鳥越氏に折り方を教わるようになった。その光景は、やがて教師たちの注目も集めるようになる。ついには、学校側からの依頼で、アートクラフト(図画工作)の授業に講師として招かれ、折り紙を教えるという事態にまで発展。日本から持って行った1,200枚の折り紙すべてを使い切るほどの盛況ぶりだった。
自らステークホルダーを巻き込む
留職、5週目。システムの完成を前に、ブラッシュアップすべき点を教師やNGO職員たちと詰めるため、鳥越氏はプレゼンを行った。意思決定に関わるステークホルダーは、総勢15人。鳥越氏は、折り紙の作品を手土産に、自ら一人ひとりをまわってアポを取っていった。この時の経験が、帰国してからの仕事への取り組み方に、大きく影響したと言う。
「客先の組織構造を気にするようになりました。インドでの経験から、何かをやろうとする時に、意思決定者であるすべての方のスケジュールを押さえなきゃいけないとわかったからです。それまで僕が持っていた、よい物を作るんだというスタンスは間違っていなかったと思いますが、それだけでは不充分だったんだと留職で気づかされました」
そして6週目。鳥越氏は、現地のニーズに応えた成績評価システムを完成させ、NGOに引き渡した。鳥越氏がシステム構築で追求したのは、一にも二にも、使い勝手のよさだった。
「僕がいなくなっても現地の方々に使っていただけるよう、シンプルな操作で扱えるシステムにしました。また、そのNGOは他にも7つのモデルスクールを持っていたので、コピーして使える汎用版も作っておきました。帰国して1年後に聞いた話では、今ではその汎用版を他の学校で使っていただいているそうなんです。とても嬉しいことですね」
誰にとって、どんな価値のある仕事なのか
留職に参加したことで、その後の鳥越氏の仕事ぶりにはどんな変化が見られたのか。
「後輩に言われて気づいたことなんですが、彼らに仕事を指示する時に、その動機付けを強調するようになりました。技術者としての範疇だけでよい物を作ればいいというのではなく、何のための製品なのか、どんな人がそれを使うのか、それによって何が生み出されるか。さらに、後輩にとって、その仕事をやることにどんな価値があるのかを、細かく伝えるようになりました」
また、上長とのやり取りでも変化が生まれたと言う。
「課長への報告資料を作る時に、課長が部長に報告しやすい資料を作ろうと心掛けるようになりました。これは、留職を提供しているクロスフィールズさんの影響も大きいと思います。プレゼン資料の作り方にしても、技術的な内容を盛り込むだけではなく、その資料を見る人の立場や目的を考えて作るようになりました」
特定非営利活動法人クロスフィールズの職員で、鳥越氏のインド留職に最初の1週間同行し、その後も日本から連絡を取り合っていた三ツ井稔恵(としえ)氏は、留職を通じた鳥越氏の変化と日本の大企業が抱える問題点についてこう語る。
「インドに行ったことで、鳥越さんはお客さまとの距離が縮まったのだと思います。鳥越さんのように、日立という大企業でインフラづくりをされている技術者は、どうしてもお客さまとの距離が遠くなってしまいますよね。だから、ものづくりの技術そのものに集中してしまうのだと思います。敢えて、ユーザーとの距離が近いインドで仕事をすることで、鳥越さんは技術者以外の視点を持ち帰ってくることができた。その手応えを、日本の大きな組織で仕事をするなかでも、忘れないでほしいです」
新たな挑戦に必要とされる技術者に
10年近くのキャリアを持つ社会人が留職に参加する意義を、鳥越氏はこう振り返る。
「留職って、ゼロから人生経験をやり直そうというものではないと思っています。技術者として培ってきた経験が通用するか、確認する場でもありました。それまでは、ただ一生懸命に仕事に没頭していた。留職を経験してからは、自分の仕事の価値というものを意識して取り組めるようになりました」
鳥越氏が留職に参加してから2年。今、どんなキャリアビジョンを描いているのか。
「チームをまとめることができ、周囲から頼られる技術者になりたい。そして、組織で何か新しい取り組みをする時に、最初に声をかけられる存在ですね。そのためには、一個人として魅力のある人間になりたいと思います。留職で出会ったインドのNGOの職員がそんな方たちで、歴史や文化、政治経済、哲学などについて、幅広い知見や自分なりの考えを持っている人たちでした。彼らに近づいていけるよう、努力を続けて行きたいです」
最後に鳥越氏は、留職を経て自身の中で一番変わった点を、はにかみながら語り出した。
「いろいろな人たちへの感謝の気持ちが、とても強くなりました。インドの教育の現場は、とにかく過酷で大変な状況でした。日本の教育は今ではずいぶん効率的になったと思いますが、過去の日本も僕が見てきたインドのような苦労を経てきたんだと思うんです。先人たちが脈々と努力し、投資してきた結果として今の日本がある。そこに感謝しなきゃいけないし、仕事を通じて、今の世の中をつくってきた先人たちに続きたいなと思います」
企業で働く社会人の情熱を取り戻すために、クロスフィールズの小沼大地氏が始めた「留職」。その取り組みは、日本の若き企業人たちの魂に、確実に新たな熱をもたらしている。
このシリーズの連載企画一覧
社員を覚醒させる原体験、「留職」 >
釜石ブランド マイナスからの挑戦 >
疲労の国が医療を変える >
イノベーターは、校長先生 >
シリーズ紹介
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一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
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