江戸時代から200年続くのど薬「龍角散」をはじめ、「龍角散ののどすっきり飴」や「龍角散ダイレクト」「服薬補助ゼリー」などのヒット商品で人々ののどを守り続けてきた、株式会社龍角散。今から20年以上前、同社は多額の負債を抱えて倒産の危機に瀕し、経営は迷走していた。創業の原点である「のどの専門メーカー」に立ち返ることで老舗の復活を図ったのが、1995年から社長を務める創業家8代目・藤井隆太氏だ。歴史ある企業を立て直すとき、経営者がなすべきことは何か。東京・東神田にある龍角散本社にて、話を伺った。

クラシック音楽からビジネスの世界へ

――藤井さんは江戸時代から続く株式会社龍角散の創業家に生まれ、1994年に当時お父さまが社長をなさっていた龍角散に30代で入社なさいました。それまで、どんな経歴を歩まれたのですか。

藤井
わたしはもともと音楽家で、フルート奏者として活動していました。音大を卒業後、パリに留学し、帰国してからもプロとして演奏活動を続けていたのですが、あるとき珍しく父と二人で飲む機会があったのです。そこで父にこう言われました。「音楽もいいけれど、ビジネスの世界を1回経験してみたらどうだ」。

父には子どもの頃から毎日のように怒られていましたから、わたしにとってかなり苦手な存在だったのですが、そのときは「なるほど、そういう道もいいかもしれない」と思いました。わたし自身、ビジネスに興味が無いわけではなかったですし、音楽を続けるうえでも、何か他の仕事を経験することで新しい視点が持てるかもしれないと考えたからです。ただ、父の会社に入って周りから特別扱いされても意味がありません。そもそも、「家業を継げ」と言われたこともなかったですし。最終的に、大阪の小林製薬株式会社にお世話になることが決まりました。同社の創業家は、藤井家の遠縁にあたるのですが、それは隠してまったくの新入社員としてお世話になりました。25歳頃のことです。

画像: 江戸時代から続くのど薬、「龍角散」。秋田藩主に仕えた医師の藤井家初代・玄淵が最初に考案した。

江戸時代から続くのど薬、「龍角散」。秋田藩主に仕えた医師の藤井家初代・玄淵が最初に考案した。

父の会社を倒すマーケティングプラン

藤井
小林製薬では、1年目に大阪市内の薬局向け営業を担当したあと、2年目にはマーケティング部に異動しました。同社の製品に、のどの殺菌・消毒をする「のどぬ~る」という薬がありますよね。わたしは、その最初のプロダクトマネージャーとして開発に関わっていました。ですから、龍角散という会社の弱さは知り尽くしていたのです。

――その頃の龍角散の弱さは何だったのですか。

藤井
例えば、マーチャンダイジングがあまりできていなかった。生活者のニーズに合った製品を、適正な量・価格で、適切なタイミングで店頭に置いてもらう一連の活動のことですが、当時の龍角散はあまり社員の行動力が無かったのか、マーチャンダイジングを問屋任せにしてしまう古い営業体質でした。そこを突き崩すには、当時の小林製薬の営業力をもってすれば簡単でした。ターゲットは、水なしで飲める顆粒状ののど薬「クララ」。今、当社から出ている「龍角散ダイレクト」の前身ブランドです。

画像: 従来の微粉末状の「龍角散」に慣れない生活者向けに開発された、水なしで手軽に飲める「龍角散ダイレクト」。顆粒タイプとトローチタイプの2種類がある。前身製品「クララ」のブランド訴求力が弱かったため、龍角散の名を冠して2008年にリニューアルされた。

従来の微粉末状の「龍角散」に慣れない生活者向けに開発された、水なしで手軽に飲める「龍角散ダイレクト」。顆粒タイプとトローチタイプの2種類がある。前身製品「クララ」のブランド訴求力が弱かったため、龍角散の名を冠して2008年にリニューアルされた。

のどぬ~るは小林製薬にとって初めてののど薬だったのですが、大々的な広告を打ったことで生活者の認知獲得に成功し、競合のクララを抜いて一気にトップシェアを獲りました。そのマーケティングプランを作成したのが、ほかでもないわたしなのです。まだパソコンが普及していない時代でしたから、問屋に毎日通ってデータを集めて、クララが置かれていない店舗を探し出して、のどぬ~るを置いてもらったこともありました。クララが売れなくなれば、いずれ父が経営する龍角散が弱体化していくだろう。そうしたらクララを譲り受けて、「小林製薬ブランド」として売れば、同社の製品ラインをもっと強化できる…。そこまで見通したマーケティングプランをわたしは練っていました。

父からは、本当にしょっちゅう怒鳴りつけられていたんです。子どもの頃だけでなく、大学生になっても…。だから、社会人になっても父が怖くて仕方なかった。父はもともと薬剤師で、理学博士でもあったので、経営者というより研究者に近い人間でした。そういった背景もあったせいか、わたしとは相いれない価値観の持ち主でしたから、心のなかではずっと父に反発していました。

そんな父の会社を倒すべくマーケティングプランを仕掛けていたのですが、不思議なことに、なかなかつぶれませんでした。小林製薬で働いたのち、父の意向で、当時龍角散と提携関係にあった三菱化成工業株式会社(現・三菱ケミカル株式会社)に移りました。光ディスクやフロッピーディスクといった記録媒体製品の営業を担当し、8年間働いたのですが、その間も龍角散はしぶとく続いていた。売上は落ち続けているのにおかしいな、あんな古臭い会社に何ができるんだろう?と思って見ていました。そしてある日、父から突然呼び戻されたのです。34歳のときでした。

財務諸表の数字に目を疑った

――なぜ、そのタイミングでお父さまから声がかかったのでしょうか。

藤井
「がんになったから直ぐ戻ってこい」と。本当に突然でした。わたしとしては、三菱化成工業の仕事が面白かったのでもう少し経験を積みたかったのですが、その一方で、ゆくゆくは自分が龍角散を継ぐことになるんだろうな…と薄々気づいてもいました。だからそのときは、戻らざるを得ないと思いました。最初は社長室付の副係長という、部下がいない役職でした。

――その頃の御社は、どんな経営状態だったのですか。

藤井
それを知るために、まずは現場を見て回りました。なぜか当時の経営陣から激しく抵抗されたのですが、最終的には全国の営業の現場を回り、工場にも足を運びました。そして、「何かおかしいな」と思ったのです。店頭には確かに当社の製品が置かれていましたが、売れていない。営業会議を開けば、毎月目標の売上額には未達。にもかかわらず、当時の社員には改善の姿勢も見えなかった。正直なところ、この会社大丈夫かなと思いましたよ。だから経営陣は、わたしに現場を見られたくなかったのでしょうね。

その翌年にわたしが社長を継ぐことが決まり、父から初めて財務諸表を見せてもらったのですが…驚きました。

年商が「40億円」。そして、その時点で積み重なっていた負債も「40億円」。

何かの間違いかと思いましたよ。

“ゆでガエル”になりやすい、老舗のリスク

――なぜそんなに多額の負債を抱えてしまったのでしょう。

藤井
わからない。わたしが聞きたいくらいですよ。なにしろ父も、なぜそうなったのか把握してなかったのです。「それでも社長ですか!」って、かなり激しく問い詰めました。子どもの頃から怖くて仕方がなかった父ですが、そのときは一歩も引けなかった。

当社のような古い企業というのは、“ゆでガエル”になりやすいのだと思います。カエルをいきなり熱湯に入れたら、驚いて飛び出しますよね。でも水の状態からゆっくり加熱していくと、熱湯になったときにはもはや飛び出すこともできず、ゆであがって死んでしまう。企業もそれと同じで、世の中のライフスタイルの変化に適応できなければ、時代の流れから取り残されてしまいます。

でもその頃の当社は、自らを変えることができなかった。経営が傾いてから慌てて新製品を出す…なんてこともやっていましたが、そういうことに慣れていない会社でしたし、綿密な販売計画を立てずに行うので、結果は返品の山。だから、マーケティングにかけたコストが全部無駄になってしまった。そういったことも重なって、負債がどんどん積みあがっていったのだろうと思います。

――社長を継ぐにあたって、どうやって会社を立て直していこうと考えたのですか。

藤井
財務諸表を見たときに、「このままだと3年もたないな」と直感しました。だから最初は、もう会社をたたむべきかじゃないかと父に言ったのです。ところが父は「それは耐えがたい」と。「ご先祖様から引き継いだ龍角散を、子孫の代でつぶすわけにはいかない」と。それを聞いてわたしは、なんとかして会社を存続させるしかない、と腹をくくりました。

画像: 藤井隆太氏は、初代・玄淵から数えて8代目。龍角散の社長としては5代目にあたる。

藤井隆太氏は、初代・玄淵から数えて8代目。龍角散の社長としては5代目にあたる。

そこでまず、子会社だった臨床検査試薬メーカーのヤトロン(現・三菱ケミカルホールディングス系列の株式会社LSIメディエンス)を本体から切り離すことにしました。試薬とは、血液などの体液を採取して分析し、臓器が正常に機能しているかなどを検査するための薬品です。ヤトロンは父が起業した日本初の試薬メーカーで、その当時は優良経営でした。でもわたしは、生活者が自分で採血して健康管理する時代が来ない限り、試薬市場の成長の見込みは無いと考えていました。どのみち将来厳しくなると思ったので、父と話し合い、子会社の売却を決定しました。

古参幹部からの嘲笑と反発

藤井
社長になる1カ月前に出席した経営会議では、大リストラを敢行して組織をコンパクトにする計画が進められようとしていました。「じゃあ、決議します」という段階になって、出席者で一番年下のわたしが待ったをかけた。

「本当にそれでいいんですか? まだまだ他にやるべきことがあるんじゃないですか?」。

確信があったわけではないですが、社内外の現場をくまなく見て回って、何か当社にしかできないことがあるんじゃないかと感じていたのです。

――当時の経営陣からの反応はどうだったのですか。

藤井
嘲笑ですよ。「音大出身の若造に何ができるんだ」と。でも、そこは押し切りました。

「知っての通り、わたしは来月から社長になる。リストラ計画は一旦白紙に戻して、わたしに任せてみませんか。リストラはその後でも遅くはない」。

当然、かなり反発されました。おそらく古参幹部の中には、(余計なことはしないでくれ、それよりちゃんと退職金出してくれ…)という思いもあったでしょうね。

――その時点で、具体的な改革のイメージがあったのですか。

藤井
入社当初に社外の店頭も見て回った話を先ほどしましたが、その狙いは、お客さまが龍角散の製品をどう思ってらっしゃるのかを知るためです。そこを徹底的に掘り下げることが、改革につながるとわたしは考えました。組織を内から変えようとするのではなく、外から龍角散という会社を分析しようとしたのです。

大企業の縮小版をめざすな

――どうやって、龍角散の強みを分析したのですか。

藤井
製品の愛用者について徹底的に調べました。製品に返信用はがきを同封し、その回答を基にマーケットのターゲット層をあぶり出す。また、返信があった方の中から調査対象者を抽出して、グループインタビューをさせていただく。その繰り返しです。そこで得たデータを自分で毎晩分析して、販売戦略のシナリオを何回も書き替えました。一番ヒントになったのは、愛用者の生の声です。

「古臭くてもうどうにでもならない会社でしょう?」とわたしが言うと、「いや、違う」と。「古いんじゃなくて、歴史と伝統がある漢方薬の会社。だから龍角散の製品が好きなんですよ」と。「でも、こんな微粉末状の薬、飲みにくいでしょう?」「いや、これがいいんです」と。ある女性の愛用者がおっしゃるには、「妊娠中に風邪をひいたところ、『血中に入らないから龍角散がいい』と産婦人科の先生に勧められた。それ以来、ずっと使っている」。持病があるという男性は、「日頃強い薬を飲んでるんだけれど、龍角散はそれとバッティングしないからいい」と。わたしが想像していた以上に皆さん龍角散のことをよく知っていらして、驚いたんです。

だからもうその瞬間に、これは決まった、と。余計なことはやらず、「のどの専門メーカー」で行こう、と。

画像: 大企業の縮小版をめざすな

わたしが入社した頃の経営陣は、その真逆で、大企業の縮小版をめざそうとしていた。要するに、のど薬のマーケットが小さいため、「胃薬や風邪薬も作ったらどうだろう」なんて意見も挙がっていたのです。わたしが思うに、それは愚の骨頂。大企業に所属していた頃、ユニークな製品をすばやく世に出すことができる中小企業に嫌というほど痛い目に遭わされてきましたから。

音楽に例えて言うと、10人フルート奏者がいて、同じ譜面を渡されたとします。そこで他の奏者と同じ演奏をやったら、負けです。フルート奏者としてのわたしの強みは、ブレスの長さを活かした、遠くまで通る艶やかな音色だと自負しています。それを最大限アピールし、自分の人生観を音に表現すべくプロの奏者として活動してきました。自分にしかできない演奏をしなければ、仕事を失ってしまう世界ですから。

当社のような中小の専門企業も同じです。競合他社が出した製品と同じようなものを出しても、だれも欲しがってくれません。自社ならではの特長をアピールできなかったら、会社の存在意義すらない。だから「のどの専門メーカー」に舵を切るべきだと、わたしは主張し続けました。そのときも、経営陣とはかなり激しく対立しました。

画像: 藤井隆太 1959年、東京都生まれ。桐朋学園大学音楽学部研究科修了。高校在学中からフルート奏者として活動。1985年、小林製薬株式会社に入社。三菱化成工業株式会社(現・三菱ケミカル株式会社)を経て、1994年に父の故・藤井康男氏が経営していた株式会社龍角散に入社。翌年、代表取締役社長に就任。龍角散は江戸時代から続くのど薬の老舗であり、隆太氏は初代から数えて8代目、社長としては5代目にあたる。現在も、プロのフルート奏者として時折活動を続けている。

藤井隆太
1959年、東京都生まれ。桐朋学園大学音楽学部研究科修了。高校在学中からフルート奏者として活動。1985年、小林製薬株式会社に入社。三菱化成工業株式会社(現・三菱ケミカル株式会社)を経て、1994年に父の故・藤井康男氏が経営していた株式会社龍角散に入社。翌年、代表取締役社長に就任。龍角散は江戸時代から続くのど薬の老舗であり、隆太氏は初代から数えて8代目、社長としては5代目にあたる。現在も、プロのフルート奏者として時折活動を続けている。

『後編:200年貫いてきた、「のどを守る」使命』はこちら>

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