「『いい会社』への投資」に特化した金融ベンチャー、鎌倉投信株式会社・鎌田恭幸氏へのインタビュー第2回。同社が選ぶ「いい会社」には上場企業を中心としながらも中小型株が多い理由と、経営者が替わっても「いい会社」であり続けるポイントとは何か。そして、信託銀行における20年のキャリアを捨てて鎌田氏が起業に至ったきっかけと、お金に対する価値観を形づくった少年時代の体験について話を聞いた。

『第1回:「いい会社」を見極める』はこちら >

投資家の「こんな会社があるんだ!」を大切に

――今、投資先は何社ですか。

鎌田
61社です(2017年8月時点)。

――そこまでふやすのは大変だったのではないですか。

鎌田
基本的には35項目程度の評価項目に照らして地道なフィールドワークを重ね「いい会社」を発掘します。最近では、いろいろな勉強会に参加したり、メディアに取り上げられたりしたおかげで独自のネットワークもでき、情報が口コミで入りやすくなりました。「この会社なら鎌倉投信の哲学に合っているよ」とか「ここは表面的にはいいこと言っているけど実態がともなっていない」とか。情報をくださる大学の先生方などとは特に何も契約を結んでいないのですが、おそらく「何か協力したい」という共感が皆さんを繋げているのだと思います。

――御社のホームページに投資先企業のほとんどが掲載されています。大企業に特化した大型株よりも中小型株のほうが多いのはなぜですか。

鎌田
わたしたちが設けている評価軸には「経営理念の浸透」や「社員のモチベーション」「リストラをしない」という項目があるので、どちらかというと中小型のほうが適合しやすい傾向にあるのです。また、お客さまとの共感を大事にしたいので、「こんな会社があるんだ!」「この会社を応援したい!」と思っていただくことがとても重要です。そういう意図で選定していることもあり、結果として中小型が多くなっています。

経営方針を貫ける会社の条件

――鎌倉投信の知名度が高まることで、企業のほうから「我が社に投資してほしい」という話も多いのではないですか。

鎌田
結構多いですね。ただ、売り込みに来られた会社に関しては、結果的に投資できていないケースがほとんどです。やっぱり…どうしても違和感があることが多いんですよね。「自分たちは素晴らしいことをしています」って自薦されるのは。また、よくあるのが上場や売上を目的化してしまっている会社で、根本的な考え方がわたしたちの投資哲学に合っていない場合も多いです。

画像: 経営方針を貫ける会社の条件

――例えば、今投資している企業が経営者の交代などで経営方針を変えてしまった場合、その時点で投資をやめることもありうるのでしょうか。

鎌田
経営方針の転換で私たちが投資した理由がなくなってしまう場合は、残念ながら売却することになると思います。ただ、なるべくそうなりにくい会社を選びたいという想いはあって、その判断のポイントがいくつかあるのです。

一番は経営理念です。社長が社員を引っ張るというよりも、経営理念が社員を引っ張っている会社。社長が代わっても創業の意志を受け継いでいける会社は、経営理念の発信と浸透のしくみができています。社員へのインタビューでは、自分の言葉で経営理念を語れるかどうかも確認しています。また、後継者の育成には15~20年かかりますから、そういった目線で後継者育成をしているかどうかも重要です。

――経営理念そのものの、良し悪しの基準はありますか。

鎌田
社員の意識を高揚させるものがいいと思います。例えば、株式会社堀場製作所の「おもしろおかしく」や、ピジョン株式会社の「愛」。さらに両社では、経営理念をわかりやすく噛み砕いた行動指針を併せて示すことで、経営理念と社員の意識とをうまく結び付けていますよね。

得られなかった仕事の手触り

――御社は2008年創業ですが、どんな問題意識から起業されたのですか。

鎌田
わたしは信託銀行で20年間、資産運用に携わっていたのですが、「金融の仕事は本当に社会の役に立っているのか」という葛藤があったのです。もともと何か大きな志があったわけでもなく、大学時代のテニス部の先輩に誘われるままこの業界に入ったのですが、実際に就職してすぐ、仕事へのやりがいは感じながらも、社会に貢献しているという手触り感はあまりありませんでした。金融業界全体としていえることですが、「当社はどうすれば儲かるか」という話が多く、信託銀行の存在価値や経営理念を深く掘り下げるような議論も少なかったように思います。その後に勤めた外資系の信託銀行では、専門性を磨いたり、いい金融商品を組成して提供するという点でやりがいはありましたが、2000年以降、派生型金融商品がふえたり、会社としての収益性を優先する傾向が強まったりする中で、2008年の1月にその信託銀行を辞めました。

その時はもう金融の仕事から離れようという気持ちが強く、何か草の根的な社会貢献事業に関われたらいいなと考えていました。ただ、当時すでに43歳という年齢でしたから、まったく違う分野への転職は正直難しい。ならば、すでに社会課題の解決に取り組んでいる人や組織を、金融の枠組みで応援できるのではないか。そういう考えに至り、前職で同僚だった3人に「何か一緒にできることはないか」と声をかけて鎌倉投信を起業したのが2008年の11月です。

――起業までの11カ月間はどうされていたのですか。

鎌田
リスクを冒して起業するわけですから、どんな金融ベンチャーにするのか半年間かけて何度も議論を重ねました。時には泊まりがけの合宿で、4人で一日中語り続けたこともありました。そうしてたどり着いた結論は、わたしたちがやろうとしているのは「場づくり」のようなものだよね、と。日本の普遍的な価値を感じられる「和」、会話や言葉にあふれ夢や希望を分かち合う「話」、人や言葉、夢が集う「輪」。この3つの「わ」を育む場を設け、金融の枠組みを使って繋がりのある持続的な社会を創ろう。それを根っこの考えとして、「いい会社をふやしましょう」という合言葉が生まれました。

画像: 鎌倉投信の社屋内部

鎌倉投信の社屋内部

5年続いたデスバレー

鎌田
その後のスタートアップが大変でした。投資信託を設定・運用する投信委託業務(投資運用業)と自己設定投信の販売(第二種金融商品取引業)を行うためには、所管官庁への登録が必要で、その手続きに時間がかかるのです。金融庁への登録やスタッフ集め、運用管理システムの導入などで、実際に事業を始めるのに約1年を要しました。ですから初年度は売上がゼロ、出費が何千万円という状態でした。

――実際に投資信託を始めてからはどうだったのですか。

鎌田
知名度がほとんどない状況でしたから、2010年3月29日に「結い 2101(ゆいにいいちぜろいち)」の運用を開始した時の設定額(投資家から集めた資金の合計額)は約3億円、お客さまの数は数百人でした。そこから得られる会社の売上は年間300万円、翌年は500万円…といった調子で、最初の数年はやればやるほど赤字がどんどん膨らんでいって、5年目まではまさにデスバレーでした。

――赤字がそこまで続くことは予想されていたのですか。

鎌田
予想はしていましたが、当初の見込みより黒字化が2年くらい後ずれしました。新たな証券税制の制定など、費用がかさむさまざまな制度への対応は想定外でした。運用環境もよかったとはいえません。運用を始めてからすぐに2009年のギリシャ危機がありましたし、2011年の東日本大震災、2015年の中国ショック、直近ではイギリスのユーロ離脱など、予測できないことが次々と起きましたからね。そうした苦しい状況でも絶対に譲れなかったのは、自分たちがやろうとする理念を貫くこと。安易な販売手法に手を出した途端に、鎌倉投信の価値はなくなってしまいますから。

――その間、会社や役職員の皆さんはどうやってしのいだのですか。

鎌田
会社については、資本が少なくなってくると、応援してくださる支援者の方々からの出資による増資を繰り返しました。社員には、安かったですが生活できるくらいの給料は払うことができました。わたしを含め創業者4人は、前職で貯めたお金でなんとか生活しました。

――今は、社会への貢献と自社にとっての利益の創出とを両立できているのですか。

鎌田
まだまだだと思います。今は期間黒字化できていますが、累積ではまだ赤字なのです。この仕事はフロービジネスではなくストックビジネスなので、損益分岐点を超えると収益性が一気に改善されます。その収益特性を分かった上で、事業を組み立てていかなくてはいけない。日本で鎌倉投信のような独立系*の運用会社が少ない理由は、スタートアップ時に設備に多額の資金が必要で、なおかつその回収期間が長いからです。

* 投資信託の販売は、銀行や証券会社などの販売会社が販売する窓口販売と、運用会社(投信委託会社)自らが販売する直接販売の2形態があり、直接販売のみに特化するケースは極めて少ない。また、親会社である銀行や証券会社が販売する投資信託を運用する系列運用会社が多い中、鎌倉投信のように親会社を持たない独立系運用会社も日本には少ない。

母の背中に教わった、商売の基本

――鎌田さんにとって、お金の大切さを初めて知った原体験は何ですか。

鎌田
母親の影響がすごく大きいと思います。わたしは島根県の大田市というところで3人兄弟の末っ子として生まれ、高校時代までを過ごしました。父親は米づくり農家で、母親は小さなお店をやっていました。近所で唯一の、食料品も売れば日用品や文房具も売る、いわゆる「万屋(よろずや)」です。そこで、母親が働く様子を身近に見て育ちました。

例えば、月1回の問屋さんへの支払いは絶対に遅れなかったですし、今月は払えないから来月に回してくれということもしなかった。今ではほとんどないと思いますが、近所のお客さまとの取引は、何を買ったかを「通い帳」という帳面につけて月末にまとめてお支払いいただく「ツケ払い」でした。商売とはそういう信用で成り立っているのだと、母親から教わった気がします。お店自体はどんどんジリ貧になっていって全然儲からなかったのですが、自分たちの生活が貧しいとも思わなかった。その代わり、100円でも10円でもおろそかにしてはいけないという商売の基本姿勢のようなものは、かなり小さい頃に教え込まれました。

――子どもながらに、お母さんの帳面を覗いていたのですね。

鎌田
毎晩、夜遅くに母親が帳面をめくって勘定合わせをしていましたからね。その頃は、「儲かりもしないのによく働くなあ」と子ども心に思っていました。ほぼ365日、お店を開けていたんですよ。わたしが大きくなるにしたがって客足も遠のいてきたので、ある時「どうして毎日店を開けるの?」と聞いたら、「近所の誰かがたまたま買い物に来た時に、お店が閉まっていたら困るでしょう」と言うのです。「そのためだけに毎日開けている」と。

画像: 母の背中に教わった、商売の基本

商売としては下手だったのでしょうけど、商売人としての心はきっと正しいのだろうなとその時なんとなく思いました。例えば、近所のお客さまに品物を届けに行く時に、子どもが3人いる家庭にはお菓子を3人分おまけに持って行っていました。信頼や信用はそういうところから創られるということを、大人になり振り返った時に気づきました。

その後大学を出て信託銀行に入り、お金がお金を生むマネーゲームや不動産投機で儲けるということに、すごく違和感を持ちました。そして、バブル崩壊やリーマン・ショックという、金融に関わる人たちの傲慢さや欲望が引き起こした経済の大津波が、何の罪もない人たちを混乱に陥れてしまった。そこで、そうではないと思ったのです、金融本来の仕事というものは。今まで皆さんが一所懸命蓄えてきた資産を、将来に向けて最適に分配して、持続的な社会・経済を作る水脈のようなものではないか、と。ですから、楽して儲けちゃイカンと思うのです、金融に関わる人は。お金を動かして儲けるしくみに携わっているがゆえに、その精神性が問われる仕事なのです。わたしがそう感じるのは、小さい頃から母親の商売を見てきたからなのだと思います。

画像: 鎌田恭幸(かまたやすゆき) 1965年、島根県大田市生まれ。1988年、東京都立大学(現・首都大学東京)法学部卒業。日系、外資系の信託銀行を通じて資産運用業務に携わり、株式運用や運用商品企画、機関投資家向けの年金営業などを担当した。外資系信託銀行の副社長を経て2008年11月、元同僚4人で鎌倉投信株式会社を起業し代表取締役社長に就任。独自の視点で「いい会社」に投資する公募投資信託「結い2101」を運用・販売している。著書に『外資金融では出会えなかった日本でいちばん投資したい会社』(アチーブメント出版,2011年)。

鎌田恭幸(かまたやすゆき)
1965年、島根県大田市生まれ。1988年、東京都立大学(現・首都大学東京)法学部卒業。日系、外資系の信託銀行を通じて資産運用業務に携わり、株式運用や運用商品企画、機関投資家向けの年金営業などを担当した。外資系信託銀行の副社長を経て2008年11月、元同僚4人で鎌倉投信株式会社を起業し代表取締役社長に就任。独自の視点で「いい会社」に投資する公募投資信託「結い2101」を運用・販売している。著書に『外資金融では出会えなかった日本でいちばん投資したい会社』(アチーブメント出版,2011年)。

「【第3回】生き方、働き方を変えるお金の使い方」に続く >

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