デジタルマーケティング支援を事業とするネットイヤーグループのリーダー・石黒不二代氏。30代で会社員を辞め、MBA取得のためアメリカへ留学し、現地で起業。その後ネットイヤーグループに参画し、今や日本におけるデジタルマーケティング業界をリードする存在となっている。 経営者としての石黒氏には、どんなバックボーンがあるのか。MBA取得の理由から、価値観を変えた留学時代の経験、そして起業を志したきっかけについて話を聞いた。

画像: プロフィール 石黒 不二代 (いしぐろ ふじよ) ブラザー工業にて海外向けのマーケティングを担当し、スワロフスキージャパンにて新規事業担当のマネージャー職を経験。その後、スタンフォード大学ビジネススクールでMBAを取得し、シリコンバレーにてハイテク系コンサルティング会社を設立。ヤフーや ネットスケープ、パナソニック、ソニーなどを顧客とし、日米間のアライアンスや技術移転などを支援した。その後ネットイヤーグループのMBOに参画し、2000年より現職。大企業を中心に、ビジネスの本質的な課題を解決するための総合的なデジタルマーケティングを支援し、ネットイヤーグループ独自のブランドを確立している。同社の連結従業員数は約350名、売上高40億円。2008年に東証マザーズ上場。現在は、内閣府の「選択する未来」委員会や経済産業省の産業構造審議会委員などの公職も務めている。

プロフィール
石黒 不二代 (いしぐろ ふじよ)
ブラザー工業にて海外向けのマーケティングを担当し、スワロフスキージャパンにて新規事業担当のマネージャー職を経験。その後、スタンフォード大学ビジネススクールでMBAを取得し、シリコンバレーにてハイテク系コンサルティング会社を設立。ヤフーや ネットスケープ、パナソニック、ソニーなどを顧客とし、日米間のアライアンスや技術移転などを支援した。その後ネットイヤーグループのMBOに参画し、2000年より現職。大企業を中心に、ビジネスの本質的な課題を解決するための総合的なデジタルマーケティングを支援し、ネットイヤーグループ独自のブランドを確立している。同社の連結従業員数は約350名、売上高40億円。2008年に東証マザーズ上場。現在は、内閣府の「選択する未来」委員会や経済産業省の産業構造審議会委員などの公職も務めている。


MBAを取れば、選択肢が広がる

――石黒さんは、MBAを取るために会社を辞め、お子さんを連れてアメリカに留学されました。きっかけは何だったんですか。

画像: MBAを取れば、選択肢が広がる

石黒
MBAそのものには以前から興味があったんですけど、背中を押してくれたのは育児の問題です。もともとスワロフスキーの日本法人でマネージャー職をしていたんですが、都内でも夜遅くまで子どもを預けられる保育所が無かったんですね。しかも、あいにく家族からのサポートも望めない状況で。日本では仕事と育児の両立がむずかしい、ならば、住む場所を変えてしまったほうがよいのでは…と判断しました。

――そもそも、どんな目的でMBAを取ろうと考えられたんですか。

石黒
キャリアアップのためです。

――MBAを取ったあとの明確なキャリアビジョンを、初めからお持ちだったんですか。

石黒
実は、無かったんです。スワロフスキーに入る前に外資系の投資銀行にちょっとだけ籍を置いていたんですけど、そこが、MBAを持ってる人しか採用しなかったんです。それでもゴリ押しして特別に入れてもらったんですけど、わたしは正式なポジションでの採用ではなくて。その時に「MBAを持っていないとダメな職業があるんだ」と実感したんです。仕事自体は面白かったので、MBAを取ればいろいろと選択肢が広がるだろうなと思いました。

「起業する人が一番えらい」という文化

――その後、石黒さんはスタンフォード大学のビジネススクールに入学しました。もともとシリコンバレーに興味があって、スタンフォードを選ばれたんですか。

画像: 「起業する人が一番えらい」という文化

石黒
そうですね、興味がありました。きっかけは、日本にいた時に初めて正社員として入ったブラザー工業での経験です。当時はプロダクトマーケティング担当で、エンジニアと仕事をしていました。エンジニアって、変わった人が多いんですね。それで初めは苦労したんですが、彼らのつくる物はとても技術力が高い。そう感じたことを伝えると彼らも歩み寄ってくれて、いい関係で仕事ができたんです。その後スワロフスキーで働きましたが、やはりエンジニアと仕事をしたいし、製品もハイテク系が好き。いつかまたITに戻りたいという気持ちはずっとありました。なので、留学先としては、シリコンバレーにあるスタンフォードを目指してました。

――実際にスタンフォードに入ってみて、向こうではどんな文化に出会いましたか。

石黒
実は、日本にいた頃は、大企業で働きたいという気持ちがずっとあったんですよ。わたしが大学を卒業した当時は、まだ男女雇用機会均等法もなく、大企業への女子の就職先がまったくありませんでした。わたしは父親が小さな製造業の経営者という環境で育ったためか、子どもの頃からわりとリーダー役になることが多かったので、学生時代までは男性との差別は感じなかったんです。ところが大学を卒業する段階になって突然、女性だからという理由で、有名な銀行やメーカーへの門戸を閉ざされるわけです。そこに理不尽を感じていたんですね。ならば反対に、それまで一緒に机を並べていた男性が入った、いわゆる大企業に入って出世してみたい。そういう思いが、だんだん心の中に形成されていきました。ちょっとゆがんでましたね(笑)

ところが、スタンフォードを中心とするシリコンバレー一帯は、とにかく起業が盛んで、みんな自由に働いている。そして、起業する人が一番えらいという文化がある。そこで思ったんですね。大企業で出世するのがいいことだという、それまでの自分の価値観のほうが、むしろゆがんでるんじゃないか、と。シリコンバレーの文化に身を置いてみて、起業の世界に興味が湧いてきたんです。もう少し視野を広げてみよう、と。もちろん、起業してもそのほとんどが失敗していくんですが、向こうでは失敗は学習だととらえる。シリコンバレーのベンチャーキャピタリストは、投資した起業家が失敗すると起業家はその失敗から学ぶので、次は同じ失敗はしないだろうと考えるんです。失敗を経験した起業家とそうでない起業家とでは、前者のほうが成功の確率が高いとみなされる。だから、失敗したことのある起業家にも投資が集まるのです。これを知って、眼を開かされました。そして、みんなが起業に向けて邁進しているのを見て、そのほうが自然なんじゃないか、大企業で働くより起業するほうが自分に合ってるんじゃないかと思うようになりました。ほんの短い期間で、日本にいた頃とは考えが変わりました。

――日本の就職活動で感じたような、男女間の差別はアメリカでは感じませんでしたか。

石黒
まったく感じなかったです。大学自体が、差別に対する絶対的な否定という姿勢なんですね。IT系が多いのでやはり男性は多いですが、スタンフォード出身の女性社長もたくさん出ています。それに人種もいろいろで、なかでもインドや中国の人が多い。性や人種の差別がまったく無い、ゆえに優秀な人材が集まってくる。そこに価値があるという文化なんですね。それは大学もシリコンバレーも一緒です。

スタンフォードの場合、ビジネスシーンへの影響力も強いです。シリコンバレーでは、スタンフォードのMBAを持っていると言った途端に反応が変わるんですよ。わたしの場合も「日本から来た女性」ではなく、スタンフォード出身のMBA取得者として扱われるので、向こうに根付いているコミュニティに入っていきやすい。なので、スタンフォードでMBAを取ったことは、とても価値があるなと思いました。

起業なら、すべて自分で決められる

画像: 起業なら、すべて自分で決められる

――スタンフォードのビジネススクールを修了後、有名なソフトウェア会社から採用のオファーがあったそうですが、起業とどちらを選択するか悩まれたそうですね。

石黒
スタンフォードでMBAを学んでいるとは言っても、日本人ということで語学力の面では不利ですし、あの頃のシリコンバレーのハイテク企業はまだ新興ばかりだったので、なかなか求人も無かったんですね。そんな状況で、ある卒業生のおかげで有名企業からサマージョブ(ビジネススクールの学生が、1年生と2年生の間の夏に企業で働く制度)をオファーされたんです。その職場では自分に権限を与えてくれて、自由に働くことができました。自己責任のなかで結果を出せばよいというスタイルだったので、とても心地よかったです。

――それでも起業を選んだのはなぜですか。

石黒
子どもがまだ4歳だったんです。子育てをしながら、居心地のいいシリコンバレーでずっと働きたい。そのためには、自分で起業したほうが最終的には成功の確率が高いのでは、と判断したんですね。オファーをくれたその会社は今でも優良企業ですし、世界的に普及したソフトウェア製品を開発した頃で、かなり躍進していました。でも、アメリカの企業っていつでも解雇ができるんです。差別以外の理由であれば、どんな理由でも解雇ができる法律になってる。いくらパフォーマンスがよい社員でも、経営者の判断次第でそれができてしまうんです。そうなると、自分に裁量権が無いなかで働かなくてはいけないから、自分のポジションを担保できない。

ところが起業なら、戦い方がわかりやすい。いいサービスを提供する、いい製品をつくる、顧客といい関係をつくる、ライバル企業よりもいい製品をつくる、いい市場に参入する。それを全部自分で決められる。そのほうが、自分に向いていると判断しました。

――そして、実際にシリコンバレーで起業されました。

石黒
はい、フィリピン系のおじさんをひとりだけ雇って(笑)ハイテクに特化したコンサルティングを行う会社です。経理はそのおじさんにやってもらって。あとは自分ひとりでやるしかなったです。

――どんな仕事をなさってたんですか。

石黒
アメリカに進出しようとする日本企業向けには、アメリカでの市場調査を行ったり、提携先や技術のアライアンス先を探したりしていました。それと、アメリカの企業の日本進出の手助けですね。ラッキーだったのは、起業した1994年がちょうどインターネットが商用化された年で、シリコンバレーの企業がすごく伸びた時期なんです。なので、日米どちらの企業からも需要が多かったです。

――最初のクライアントっておぼえてますか。

石黒
ヤフーですね。日本進出を支援する仕事でした。創立者のジェリー・ヤンと、バーベキューパーティーで知り合ったのがきっかけで(笑) それで実績ができたので、ヤフーとネットワークがある日本企業にも売り込めました。それで、いろいろな電機メーカーとも人脈ができました。

マーケティングに見た日米の違い

――そしてネットイヤーグループの経営者になられるわけですが、どういった経緯だったんですか。

石黒
わたしが立ち上げたコンサルは順調に伸びていて、いいクライアントさんにも恵まれたんです。でも、そろそろ事業を拡張しようと考えていた時期でした。ネットイヤーのMBO(Management Buyout:経営陣が自ら自社あるいは事業部門を買収し、親会社など株主から経営権を取得すること)に参画したのが1998年。当時のネットイヤーのビジネスモデルはすでに今と同じだったんです。まだ市場は小さかったんですが、これから伸びるだろうなという感触はありました。そして、自分のコンサルティング会社を他に引き継いで、1999年に正式に社長としてネットイヤーに入りました。

実はコンサル時代、企業への投資もしてたんです。アメリカの企業の、ありとあらゆるビジネスプランを見てきたんですけど、必ずと言っていいほど、かなり優れたマーケティングの考え方がビジネスプランの根底にある。その点が日本とはものすごく違うなと感じました。そういったマーケティングの支援を専業としているネットイヤーに、可能性を感じたんです。最終的には、それが日本の企業を変えていくかもしれないと思っていました。

――まさにインターネットが始まった時代に、それを媒介にしたお仕事を始められたんですね。

石黒
当時はインターネットビジネスが一番熱かった時期で、その精鋭のビジネスをアメリカで見てきました。日本にあったインターネットビジネスよりも、5年から10年くらい進んでいたと思います。市場がまだついてこなかったので、実際に成功するのは、もっとあとでしたけど。今でいうソーシャルメディアやリコメンデーションなど、インターネットで当たり前になったマーケティングの手法が、当時からありましたからね。そのくらい、アメリカのインターネットビジネスは進んでいました。


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