画像: 小泉 英明 脳神経科学者、株式会社日立製作所 フェロー

小泉 英明
脳神経科学者、株式会社日立製作所 フェロー

専門は分析科学・応用脳科学・環境科学。1971年東京大学教養学部基礎科学科卒、同年日立製作所入社。理学博士。東京大学先端科学技術研究センター客員教授を経てボードメンバー、日本工学アカデミー副会長、日本分析化学会第55代会長後名誉会員、中国東南大学名誉教授、中国工程院外国籍院士、日本学術会議連携会員。光トポグラフィ/MRI/MRA/fMRIなどの脳機能画像法を開発し、「脳科学と教育」、「トランス・ディシプリン(TD)」、「分析科学」などの新概念を提唱。実証データを基調に自然科学と人文学・社会科学との連携や、社会での実践活動を推進。ローマ法王庁科学アカデミー創立400周年にて記念講演後、ヨハネ・パウロ2世に謁見。約40年前に原理創出と製品化を手がけた日立偏光ゼーマン原子吸光光度計は、昨年、分析機器・科学機器遺産に選定。大河内賞3回ほか、内外の多くの賞を受賞。著書は『脳は出会いで育つ』(青灯社)、『脳の科学史』(角川SSC新書)、『脳科学の真贋』(日刊工業新聞社)をはじめ多数。編著書には『幼児期に育つ 科学する心』(小学館)、『脳図鑑21』(工作舎)、『脳科学と芸術』(工作舎)などがある。また故市川團十郎氏との対談に『童の心で』(工作舎)がある。


資本主義と社会主義に共通する問題

イノベーション理論を確立したのはヨーゼフ・シュンペーター(1883~1950)ですが、後年、彼が危惧したのは、資本主義社会の発展により、経済が安定化し人々が豊かになると、ハングリー精神を失い、起業家精神が萎えてくるのではないか、ということでした。故にシュンペーターは創造的破壊を常に継続しなければ資本主義は滅びると、イノベーションの重要性を説きました。一方、カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスらが唱えた科学的社会主義にしても、その障壁となったのは「emotion」(情動)の問題です。皆が平等になると、やがて労働への意欲を失い、生産性が落ちてしまう。それが現実の人間の姿です。

画像: 資本主義と社会主義に共通する問題

資本主義と社会主義という世界を二分する大きな思想の問題が、いずれもemotionに帰結するというのは当然といえば当然でしょう。なぜなら、emotionこそが人間を衝き動かす原動力だからです。

emotionの原点は、「欲望」であり、「業(ごう)」であり、脳神経科学で扱う「報酬系」の問題です。資本主義も社会主義も、実際にはその問題を克服するためにさまざまな取り組みに挑戦し、ある部分は挫折もし、また改善を繰り返して今日に至っています。しかしながら、今、社会イノベーションが希求されるのは、さらなる新しい社会システムの出現に大きな期待が集まっているからにほかなりません。もはやemotionを無視して、次なる社会システムを構築することはできないのではないでしょうか。

人間の「業」を扱う脳神経科学の役割

そうした中で近年、私の専門の一つである脳神経科学の進展により、人間の情動のメカニズムが解明されつつあります。これにより、人間の欲望や業といったものの本質が見え始めているのです。私自身もその取り組みの一つとして、昨年2013年に、惜しくも若くして亡くなられた歌舞伎役者の市川團十郎丈とともに、『童の心で―歌舞伎と脳科学』(工作舎、2012年)という本を書きました。なぜ歌舞伎に着目したかというと、歌舞伎が人間のすべての欲望や業、すなわち脳の働きを網羅している芸術と考えるからです。

たとえば、『女殺油地獄』の中には、主人公の与兵衛がお吉を追いかけまわし、油まみれになりながら惨殺する有名なシーンがあります。旧歌舞伎座のさよなら公演を観劇した際、与兵衛を演じる片岡仁左衛門丈が、その場面で一瞬、恍惚の表情を浮かべたのはとても印象的でした。これこそが人間性の深遠さであり、歌舞伎ほどそうした人間のタブーを扱う芸術はほかにはないでしょう。

しかも歌舞伎は、そうした人間の業をちりばめつつも巧みにタブーを隠すことで、カウンターカルチャーとして現在まで存続し得た。その存在自体に、人間の奥深さを感じざるを得ません。脳神経科学は人間の業やタブー、本質的な社会現象を扱うものですから、その一つの手本として歌舞伎は非常に重要な題材というわけです。それが、倫理や「温かい心」の本質を見極めることにも繋がります。

翻って、現代の経済が行き詰まりを見せている原因の一つが、従来、人間を一律に扱ってきたことにあると感じています。実際には、歌舞伎に見られるように一人ひとりの感情や欲望や業、それらに裏付けられた行動によって社会は動いています。そのことを無視してきたからこそ、経済予測は当たらないし、社会全体に閉塞感が蔓延しているのはないか。一人ひとりの人間の欲望や業に切り込み、それにより形作られる社会の問題を解決するような新しい社会システムの構築に資することこそ、まさに脳神経科学の役割だと考えています。

脳は社会的評価や利他的行動に悦ぶ

画像: 脳は社会的評価や利他的行動に悦ぶ

ところで、欲望や業、タブーなどというと、人間の狂気といったネガティブな面を思い浮かべる方が多いと思いますが、「報酬系」の解明により人間の尊厳に関わる新たな側面が見えつつあります。

私は2001~2009年まで、科学技術振興機構 社会技術研究開発センターの「脳科学と社会」研究開発領域の領域総括を務めましたが、そのプロジェクトの中で、2008年に、fMRIや光トポグラフィを使った画期的な研究について定藤規弘教授(自然科学研究機構生理学研究所)らが米科学誌『Neuron』に成果を発表しました。ここで明らかにされたのは、脳の前頭眼窩野とその奥にある線条体など報酬系を司る部位が、人間が社会的に高く評価された際に活性化するというものです。線条体の被殻や尾状核は本来、動物が美味しい食べ物を手に入れた際など、快楽を感じると活動する部位です。実は前頭眼窩野や線条体は、スイスの神経科学者Wolfram Schultz氏によって、経済的報酬に対しても活動することがわかっていましたが、さらに社会的評価という精神的な報酬に対しても、明瞭に反応することが判明したというわけです。

社会的評価によって経済的報酬を得たと同じ、もしくはそれ以上の満足感が得られるというのは、人間ならではで、人間の尊厳と密接に関わっています。さらに、利他的な行動をし、他者が喜んでくれた場合にも同じ箇所が反応することは想像に難くありません。人間は動物と違って、精神的な悦びによって満足を得て、幸せになれる生き物だと思います。だからこそ、そうした人間の尊厳を基調とした新しい社会システムを構築することが重要だと考えるのです。

世界のさまざまな課題を解決するために

今、世界中の全人口のわずか1%の最富裕層が、世界の富の半分を占めていると言われています(Oxfam report 2014)。その一方で、多くの人々が飢え、病気の治療を受けることなく亡くなっている。これは明らかに理不尽な現実です。その解決には、ethics(倫理)が不可欠だと感じています。コンプライアンスの遵守は企業の社会的責任の基本ですが、そこにethicsがなければ、これからの社会を継続させていくことは難しい。では、ethicsとは何か。脳科学により、人間の尊厳を探ることは、人間のethicsに迫ることにも通じています。人類愛の大義のもとに、今、世界では幼気ないたくさんの子どもたちが犠牲になっています。本気でethicsに迫ろうとしたら、歌舞伎に見られるタブーにも目を背けずに、人間の業を直視する必要があるでしょう。

今なお、さまざまな場所で国際紛争が起こっていますが、その根底にあるのが「憎しみの連鎖」です。これを断ち切るためには、人間の憎悪がなぜ生まれるのかを知る必要がありますが、これまでの学問分野では「憎悪」は研究の対象外でした。敢えて言えば、今までの科学はやれそうなものだけをやってきた。たとえば、心理学の辞典を引いても「憎しみ」や「憎悪」といった項目を見つけることはできません。好き嫌いや嫌悪は研究しやすいけれど、ときとして憎悪は時間とともに増幅することもある。再現性を求める科学では扱いづらいということなのでしょう。しかし、本来、憎しみほど人間の本質的な感情はないはず。歌舞伎の物語においても、互いにアンビバレント(相反的)な関係にある愛と憎しみは最大のテーマの一つです。同時多発テロの後、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は「憎しみの連鎖を断ち切る勇気をもって欲しい」と繰り返し述べられました。こうした問題に対しても、脳神経科学の進展により、何をしたらよいかを明らかにできる可能性があると思います。だからこそ、バチカンのアカデミーも脳科学に力を入れているのです。

ちなみに、社会イノベーションの概念については、「社会」という言葉の捉え方として、英語のsocialよりも、societalへとさらに進化させるべきと考えています。前者は他者との人間関係を表す語ですが、後者は社会そのものを意味するもの。情報による社会の関係性向上から、さらに社会自体を進化させる視座を持ちたいと思います。今、我々が希求する社会イノベーションは、まさに社会そのものを問い直し、つくり変えることへ向かいつつあります。

幸いにして、日立の創業者である小平浪平翁は、「企業は社会のためにある」という理念を掲げており、日立グループではその精神が今日まで脈々と受け継がれてきました。その根底には、アメリカンドリームとは違ったethicsが存在します。今こそ、「温かい心」やお互いさまという思いやりの心を持ち、他者の立場に立って考え、行動することがすべての局面で求められています。その方向性を示す際に、脳神経科学が羅針盤になり得るということを、松岡正剛氏との対話の中でお話しさせていただきたいと思います。


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